狂爛の宴
<2>




「今からわたしが向かうのは、トレノにあるクシュハルト邸です」
「クシュハルト?」
誰だ? とジタンはトットに尋ねる。
 すでに険しい山を越え、二人はベンティーニ高原を歩いている。
「アレクサンドリアの大臣の一人です」
トットはついと足を止め、ジタンを振り返って見上げた。
もうトレノまであと数歩というところまで来ている。
あたりはほとんど完全な暗闇になってきた。
その暗闇の中で、トットの眼がきらりと光ったような気がした。はたしてそれは、眼鏡のせいなのか、それとも光の加減というものだろうか。
その眼は今朝と同じく、真剣にジタンを見ている。
……ここからが大切なところです。いいですかな? と、トットは前置きして、ジタンに告げた。
「ジタン殿のことは見習いの者だと伝えてあります。ジタン殿も、そのつもりで振舞っていただきたい」
ジタンは目を瞠(みは)った。
  どういうことだ?
「なん……」
「時間がないので、そのことだけ先に言っておきました。さぁ、先を急ぎましょう」
ジタンの言葉を遮ると、トットは背を向けてすたすた歩き出してしまう。ジタンは一瞬惚けて、目を瞬かせた。
「いったい……なんだっていうんだよ……」
トットはすでにトレノの門近くへと足を運んでいる。ジタンも急いでそれに追いついて、そして二人で衛兵が門を開けるのを待った。
  これから、何が起こるんだ……
 開いていく門。
 それが、得体の知れない事件の始まりに見えてならない。
ジタンは、不安を抱えたまま、門をくぐった。






 クシュハルト邸は、トレノでも一番地価の高い一帯に堂々たる姿で建っていた。
キング家ほど豪奢な飾りはされていないが、高い塀に囲まれ、外壁を白く染め上げたその姿は薄明かりの中に浮かび上がり、幻想的な雰囲気をかもし出している。その広さといえば、アレクサンドリアの民家がいくつも入ってしまうほどだ。
 二人は使用人の女性に中に通され、客間らしいところへと案内された。
部屋の中は絵画や彫刻などの美術品がずらりと並んでおり、そのどれもが売れば高価な値段のつくものばかりだった。
 やけにすわり心地の良いソファに腰掛け、屋敷の主をトットと待ちながら、
(あの壺、売れば劇の最高級衣装が二十着は買えるな……)
など、品定めしてしまうあたり、もと盗賊のゆえんだろう。
 ふと、ジタンは自分の着ている服を見下ろしてそっと溜息を洩らした。
ジタンはいま、普段の軽装ではなく、アレクサンドリアの官僚見習いが着る紺色の生地にアレクサンドリア王国の紋章が銀糸で縫いこまれた衣装を身にまとっている。
 トレノに入ってまずトットは宿屋を借り、そこでジタンに持ってきた見習い用の服に着替えさせた。トット自身も旅装をとき(ジタンにはどう見ても旅装に見えなかったので旅装と知ってかなり驚いた)、宰相の正装に着替えた。
宿で湯を借りてきて、山道でついた汚れを湯で濡らした布で落とし、その衣装に袖を通すと、少なからずジタンは窮屈さを感じた。見習い用のその衣装は、装飾がそう多くはない点は良いのだが、詰襟が高くて少し息苦しいうえ生地がピシッとし過ぎているおかげで肩が窮屈だった。これでは肩より上に腕を上げることはできなさそうだ。
髪も、いつもは無造作に後ろでしばるのみなのだが、いまは整髪料できちんと固められ前髪も上げられた。
それに加えて、この豪邸だ。なんとも居心地が悪いこと、この上ない。
 はやくこの衣裳を脱いでガーネットのもとに帰りたい、とそう切実に思った。
そのときだった。部屋の扉が開かれて、そろそろ五十代にさしかかろうかという男が入ってきた。その後ろから、息子と思われる青年が付き従って入室してくる。
 その姿を見るとトットは立ち上がり男に向けて一礼する。ジタンもトットに倣った。
「わが屋敷にようこそいらっしゃいました、宰相殿。長旅でさぞお疲れでしょう。少しお休みになってはいかがですか?」
「このたびはお招き、誠にありがとうございます。老体とはいえ、まだまだ休むわけにはいきますまい。お気遣いだけありがたく頂戴しておきます」
 トットはいつもの柔和な口調で挨拶を交わす。ジタンはその相手の男をじっと観察した。
二人の態度とやり取りからして、この男がこのクシュハルト邸の主に違いないだろう。
クシュハルト氏は厳格を絵に描いたような風貌で、するどい目つきをしている。ジタンはそこでふと、クシュハルト氏の後ろに控えている青年に目を遣った。
青年も、こちらを見ていた。目が合うと、青年は微小を浮かべた。
歳はジタンよりも少し上だろう。落ち着いた雰囲気で、妙に存在感のある青年だった。
「おお、紹介いたしましょう。これは私の息子のコウジュです」
言われて青年は一歩前に出、一礼をした。その動作がまた、流れるような優雅さで完璧な作法だった。
「コウジュ、と申します。以後お見知りおきを」
声も、静かで落ち着いていて、よく通る心地よい声だ。
「素晴らしいご子息をおもちですな」
ニコニコと人好きのする笑顔でトットは男に言った。
「ええ、自慢の息子です」
ニコリ、と厳格そうな顔を満面の笑顔に変えて臆面もなく言うクシュハルト氏に、ジタンは呆れを通り越して感嘆を覚えた。ただの親馬鹿でもなさそうだ。よほどコウジュという青年は、よくできた人物なのだろう。
視線を遣ると、顔を上げた青年はまたふわりと笑みを浮かべてジタンを見ている。
「そちらがおっしゃっていた見習いの者ですな?名は何と?」
クシュハルト氏がジタンに視線を向けて問う。
ジタンはその場でアレクサンドリアの官僚がとる礼をした。
いままでやった事はないが、ほとんど毎日官僚たちがこの礼をとるところを見ている。
ジタンはそれを完璧に、なおかつ優雅に真似した。このくらい、劇団タンタラスで鍛えられたジタンにはお手の物だ。
「マーカスと申します。未熟者ですが、何卒よろしくお願いいたします」
かねてからトットとうち合わせていた偽名を名乗る。
ジタン・トライバルの名は知られすぎているから使うな、とトットは宿屋でジタンに忠告したのだった。どうしてそこまでしなければいけないのか、それは教えてもらっていない。ただ、クシュハルト邸に行けば分かる、と言われただけだった。
  ちくしょー……さっぱりわかんねーぞ、トット先生。
「マーカス殿は運がいい。この宰相殿の下について勉強できるのですからな」
そのとき、なにやら外の方から少し騒がしい音が聴こえたような気がした。どうやらそれはジタンだけに聴こえたわけではないらしく、クシュハルト氏はおや、という顔で外を見た。
「そろそろお時間のようですな、宰相殿。下の広間へ参りましょう。コウジュは、ディアナについていてくれ」
はい、と答えて一礼し、青年は退出した。その後すぐにクシュハルト氏を先頭に、トットとジタンも部屋を出る。クシュハルト氏に従って長い廊下を歩き、階段を下りると、そこは一階にある大広間だった。
 ただでさえ広いこの屋敷なのに、一階はほとんどこの広間に面積をあてているようだった。アレクサンドリア城の広間と同じくらい、いや、それ以上の広さはあるように見える。トレノには日の光というものがないので、壁にはいくつもの燭台が備えられ、蝋燭をたて火を灯し、広間を照らしている。それでもやはり、薄暗い。
その薄暗い広間に、おびただしい数のメイドや使用人と見られる人間たちが入り口の方からずらりと向かい合って二列に並んでいるのを見て、ジタンは内心目を丸くした。
  オイオイオイ……今から何が始まるっていうんだ?
 誰かを迎えるためのようだ。ものものしさは尋常でない。どの使用人も顔を引き締めて姿勢を正し、待っている。
ジタンたちはクシュハルト氏に案内され、ずらりと並ぶ使用人たちの最後尾、広間の真ん中あたりに連れて行かれた。使用人たちの列には入らず二列の間で立ち止まり、入り口に正面向いて立つ。
やがて、入り口の向こうから、誰かがゆっくりとやって来る気配がした。一人ではない。衣擦れの音や静かな足音、ひそやかなささやき声からして、二十人はいるだろう。
 広間にいる者たちの間に、いっそうの緊張がはしった気がした。
ジタンも知らず身を硬くし、斜め一歩前にいるトットを見た。
だがトットは、まるで緊張などしておらず、まったく普通に見える。
 広間の大きな入り口に、人影が見えた。
まず始めに姿を現した人物を見て、ジタンは思わず叫びそうになった。いや、間違いなく叫んでいただろう。いち早くその気配を察してトットが不自然な咳をしなければ。
  ガーネット!!
 ジタンは半ば呆然としながら胸の内でその名を呼んだ。
薄暗くて見えにくいが、ジタンにははっきりと分かる。
ガーネットは薄紅のドレスを身にまとい、伏せ目がちに歩いてくる。蝋燭の光りに照らされた彼女の美しさは、まるでその姿から光がこぼれてくるようだった。
ジタンは目を丸くしたまま彼女を見つめた。彼女は、まだジタンには気づいていない。
屋敷の使用人たちは、ガーネットが側を歩くごとに深く頭を下げていった。
広間の中はシンと静まり返っている。誰もが、ガーネットの美しさに魅入っていた。
その中を歩きながら、ガーネットはこちらへゆっくりと向かってくる。
 その姿は、まさに女王だった。
彼女の後ろからは、ベアトリクスを始め、アレクサンドリア城でガーネットの世話を任されているなじみの侍女たちや衛兵たちがガーネットに従って歩いてくる。
ジタンたちのもとまであと数歩というところで、ガーネットが視線を上げた。
一瞬、ジタンを見て目を丸くし、足を止めかけたように見えたのは、気のせいだろうか。
だが次の瞬間にはもうすでに彼女は女王の顔になり、しっかりと前を見据えて歩いてきた。
「──……ようこそおいでくださいました、女王陛下」
クシュハルト氏が一歩前に出、ガーネットに向かって一礼する。
ガーネットも優雅に一礼を返し、
「お招きいただき、ありがとうございます。これから三日の間、お世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」
まるで歌うような美声が広間に響いた。




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