雪月架



ずいぶんと時間がたち、重なった二つの月がゆっくりと沈み始めたころ、焚き火の炎が大きくぱちんとはぜた。
その音に誘われるように、ジタンはゆっくりと顔を上げる。
そして、息を呑んだ。
炎の向こう側に、いつのまにか長い白髭を生やした老人が座っている。
ジタンはまったく気がつかなかった。
老人はジタンににっこりと笑うと、語りかけてきた。
「……お悩みのようじゃな、若者よ」
老人は、はっきりとした体をもってはいなかった。薄く透けていて、ときに体の向こうの景色が見えてしまう。
「……なんで……こんなところに?」
驚いた。ジタンはこの老人に何度も会ったことがある。何度か命を助けられたこともあるくらいだ。
だが、なぜここにいるのか。
「フォッフォッフォッ。わしらには実体はありゃせんからのう……。わしくらい古株の召喚獣になれば、召喚士がおらんでも自らの意思でこの世界に現れたりできるものよ。現に、おぬしと初めてここで会ったときにもわしは自らの意思で現れたろう?」
「ああ。……なつかしいな」
ジタンは焚き火の炎に視線を落とす。
あの頃は、ただ仲間を守って、仲間を脅かす存在に対して向かっていって……。他には何も考えなくてもよかった。
「……ずいぶんと深くお悩みのようじゃ」
 老人は、すっと目を細めた。
その緑色の瞳は深く、すべてを見通しているかのようだ。
ジタンは、そっと目を伏せた。
 この老人になら、なにもかもを話していいような気がする。

「おれは……べつに何も、いらないんだ」

ほう、と老人が呟く。

上を見上げる。
木の葉の間から見える空には、月が浮かんでいる。
赤い月が青い月の上から被さって、仲むつまじく光っている。
ジタンは静かに胸の内に溜まってごちゃごちゃとしているものを吐き出し始めた。
天を仰いで、薄く目を開いて、まるで告解のように。
「……おれは、別になにもいらないんだ。王位が欲しいわけじゃない。地位が欲しいわけでも財が欲しいわけでもない。ただ──……ガーネットと一緒にいたいだけだ」
 彼女とともにいたい。ただそれだけ。
それだけなのに、どうしてこんなにも他人からとやかく言われなければならないのだろう。
ジタンはずっと疑問に思っていた。
「ただ、それだけなんだ……。ガーネットのそばにいられるなら、他には何もいらない。……でも、そんなこと他人はおかまいなしなんだ。おれが貴族や高官やらで、財をたくさん持ってたらよかったのかとか思ったりするけど……それならそれで奴らはまた何か文句を言うんだろう。……結局、おれの存在が邪魔なんだろうな」
嫉妬。権力欲。陰謀。蔑視────……。
窮屈で、息が詰まりそうだ。
「たぶん……体質に合わないんだろうな。政治とか、人の陰謀が渦巻いてて、表はにっこり笑ってるかと思えば中はどす黒いこと考えてる、そんなどろどろな世界が」
 自嘲気味にわらって、ジタンは目を閉じた。
「あいつに───おれは何をしてやれるんだろう」
「あいつとは……わが宿主のことじゃな?」
 ああ、とうなずく。
「前にも一度、同じようなことで悩んだよなぁ……。進歩してねぇってことか」
 あれはまだクジャの正体も自分が何者かもなにも分かってなくて、ガーネットがあと数日で女王に即位するという頃だった。
遠い存在になってしまう彼女に勝手に憤って、勝手に拗ねていた。彼女を忘れられるわけがないのに、むきになって忘れようとしていた。
 あのころと、ほとんど変わっていない。
でも、あの頃と全く違うのは、自分には彼女が必要なのだとはっきり自覚していて、そして彼女のそばにいるためにどうすればよいか、彼女のためになにができるか、考えていることだ。
「あの娘のためになにができるか、おぬしにはわからぬか?」
「……ああ」
 わからない。わからないから、こうして悩んでいる。
「簡単なことじゃ。ただ、そばにいればよい」
 え、と顔を上げた。
老人と目が合う。緑色の瞳は、やさしい光をたたえていた。
「おぬしらは、分かり合っているようですごく肝心なところで認識が欠けておる。おぬしの望みは、ただあの娘とともにあることじゃろう?」
「ああ」
「どうして、相手もそうだと思わん」
 ジタンは思わず息を止めた。
「わしはあの娘の『心』に応えて力を貸す者じゃから、あの娘の『心』はようくわかる。あの娘は、おまえを守りたいと願っておる。そして、なによりもおぬしとともにありたいと、いつも願っておる。その『心』は、おぬしには届かなかったのか?」
「…………」
「あの娘の願いを、おぬし以外のいったい誰がかなえてやれると言うのじゃ。あの娘は、おぬしを選んだ。おぬしにしか、あの娘の望みはかなえてやれん。そして、おぬしの望みもあの娘にしかかなえられん。そうじゃろう?」
言い切られ、ジタンは沈黙した。
ガーネットの、願い。
それは、考えているようで、実は考えていなかったこと。
自分は何ができるか、どうすれば周りが自分のことを認めてくれるか、自分勝手に考えていたような気がする。
────ガーネットが、望んでいること…………
「あの娘はいまも、この寒空のなかおぬしの帰りをただひたすらに待っておる」
帰ってやれ、と老人は諭した。


焚き火の炎が今一度、大きくはぜた。






 かじかむ指先に息を吹きかけて、ぎゅっと握る。
寒さが増してきたようだ。空気が凍るように冷たい。寒さを孕んだ風は、容赦なくガーネットの髪を乱し、その体から体温を奪う。
 けれど、ガーネットは部屋には入らなかった。
  わたしには、待つことしかできないから…………
 ガーネットには、ジタンを引き止めることはできなかった。
ジタンが何に悩んでいるか、分かっていたから。
口さがなく言う官吏たちの話はガーネットの耳にも入っていたし、予想できたことだった。
けれど、それでも、自分は彼を選んだ。彼がよかった。他にはいらないとさえ思ったのだ。
 必死であの日彼を引き止めそうになる心を抑えたのは、彼を縛り付けることはできないと思ったから。やれないのではなく、やってはいけないのだ。
わたしは、この国になくてはならない。
けど、無理やり彼にもそれを押し付けることはできない。
 ────彼は、自由に生きる人だから…………
 鳥のように自由に羽ばたく人だと、はじめから分かっていた。だからこそ、どんどん惹かれていったのだ。心は、止まらなかった。
自由に羽ばたく鳥を無理やり籠の中に押し込めば、弱ってしまう。
 なにより、自分が彼にしてあげることが、何一つとしてない────
ガーネットには、いま、待つことしかできない。ランタンに火を灯し、どこにいるかもわからない彼に、「わたしはここにいる」と示すことしか、できない。
帰ってきてはくれないかもしれない。
でも、なにかをしないではいられない。

だから、待っている。






___________

 スタイナーは明け方、すぐそばで枯葉を踏む音を聴いた。
彼はずっとガーネットの部屋の階下で、立っていた。ただ立っていたわけではない。ランタンの光りに吸い寄せられるように寄ってくる輩を追い払うためである。
静かに剣を抜き放ち、構えた。
「……おいおい、物騒だなおっさん」
スタイナーはこの声の主を知っている。
でも、いや、だからこそ剣を収めはしなかった。
 間合いを一気に詰めて、剣を思い切り振り下ろした。
夜明けの庭に、鋭い音が響く。
 ぐぐ、と愛用のダガーで剣を受け止め、金髪の青年はひたとスタイナーを見据えた。
「ずいぶんな挨拶だな、おっさん」
 スタイナーは本気だった。手加減など一切なしで青年に切りかかっていた。
「貴様が、許せんのだ!」
 いったん間合いをとって、退く。体勢を整えて、再度青年に斬りかかる。
キンッ!
「ぐっ……!」
青年は再びダガーで剣を受け止める。だがスタイナーのように大柄な男の力は強すぎて、そうはもたない。
長期戦は不利だな、と判断して、青年は自ら攻めた。スタイナーは、攻撃力はぴか一だが、装備が重くその分素早さに欠ける。
右から左、左から右、裏をかいて上、と青年は次々とダガーを振るった。
「ここだ!」
 青年がスタイナーの一瞬の隙をついてダガーを振り上げる。キィンッ!と鋭い音をたてて、スタイナーの剣が宙を舞った。それと同時に、青年が持っていたダガーも青年の手からこぼれ、宙へと飛んだ。
だが、青年にはもう片腕のダガーがある。それをすかさずスタイナーの喉もとに突きつけ、スタイナーを見据えた。
 二人とも息があがっている。
くるくると舞ったスタイナーと青年の武器は、二人から少し離れたところの地面に突き刺さった。
刃を突きつけられ、それでもスタイナーは彼を睨む。たまりかねたように、叫んだ。
「貴様!なぜもっと早く帰ってこない!!」
突きつけられた刃をものともせずに青年に詰め寄って、その胸倉を掴み上げる。そして、
「貴様が出て行ってから、姫様は一睡もされとらん!!それどころか、この寒いなかずっと外に出られて、貴様を待っておる!!自分やベアトリクスが何度言っても休んでくださらん!貴様、もし姫様が病にでもなられたら、どうしてくれるつもりだっ!!」
 スタイナーは本気で怒っていた。
出て行ったきり帰ってこなかった青年にももちろん憤っていたが、何よりも一番憤ったのは、己に対してだった。何度お休みください、お部屋に入ってくださいと言っても、ガーネットは頑として譲ってくれなかった。ガーネットを寒空のなかから部屋の中へと動かせる人間でないことを、スタイナーは心底厭わしく思っていた。それは、ベアトリクスも同じ思いであった。
女王の身が心配でたまらないのに、自分たちには、出て行った青年を待つことしかできない。それが何よりも悔しかったのだ。
「おっさん……」
「もういい!さっさと行け!さっさと行って姫様を安心させてさしあげるのである!!」
掴んでいた服をわざと乱暴に放して、スタイナーは剣を拾い、背中を向けてその場から去って行った。
「おっさん……」
 その背中を見ながら、小さく、すまねぇ、と呟く。そして、手馴れたようにそばにあった木を登った。
上の方に、ちらちらと光る灯りが見える。
その光を目指して、彼は一心に登った。





 もう夜明けが近いらしい。
山並みの向こうがうっすらと白くなってきたのを眺めながら、ガーネットはそう思った。
相変わらず空気は温度を下げ続けている。
  ────今夜も、帰ってこなかった……
 自然と溜息がでる。
 自分の吐き出す白い息は、すぐに宙に溶けた。
不意に、ランタンを持つ手に何かが触れて、ガーネットは自分の手を見た。
白い自分の手には、雫と、それに混ざって氷のようなものがついていた。
「雪……」
呟いて上を見ると、やはり、白い小さな雪がはらはらと降ってきていた。
片手を前に出して雪のひとひらを受け止める。
雪はガーネットの手のひらの上に受け止められると、ゆっくりと溶けていった。
  ────ジタンが一生ここへ帰ってこないのなら、この雪のように、この想いも融けてしまうことができればいいのに………
 できない、それは無理だと心の中で声がする。
この、彼への想いは、一生融けることはないのだと。絶えることなく続いていくのだと。
 それは、幸せなことなのか。それとも、悲しいことなのか。
  ────ジタンがいてくれるのなら…………
 がさり、と音がしたのはそのときだった。


「ガーネット」



 ガーネットは一瞬、空耳かと思った。

彼に会いたいと望む心が生んだ、幻の声かと。
音のした方に顔を向ける。彼が、視界に入る。
「ガーネット」
彼が、わたしの名前を呼ぶ。
澄んだ青空のような瞳が、わたしを見つめる。
彼の腕が、わたしの方へと伸ばされる。
ゆっくりと、いままで心の中に巣くっていた不安という塊が融けていく。
「ジタン!」
駆け寄る。彼の腕が私を捕らえる。わたしも彼の体に夢中で腕を巻きつけて、その胸に顔を埋めた。
「ごめん、ガーネット」
彼の低い声が耳元で聴こえた。心地の良い声。安心できる声。暖かい場所。
彼の胸の中で、ガーネットは首を振った。
「……いいの……」
自分には、待つしかできなかった。そして、ジタンは帰ってきてくれた。
それだけで、もう、いい。
「ああ、こんなに冷えきってる」
ごめんな、と言いながら、ジタンはガーネットの腕を取った。そのまま自分の顔にもっていき、自分の熱を与える。
ガーネットの手は冷え切っていて、ひやりと冷たい。
「ジタンは……あったかいのね」
先ほどスタイナーと剣を交えたせいで、体はあったまっていた。
けれど、それはなんとなく言いづらい。ジタンは適当に笑ってごまかした。
とにかくこのままではガーネットが凍えてしまうと思い、冷えた彼女の体を横抱きにして、ジタンは部屋の中に入った。
部屋の中はシンとしていて、暖炉に火は灯されていなかった。
帳をわけ、寝台に彼女を横たえさせる。
自分はそのまま寝台の端に腰掛けた。
熱のない顔を両手で包み、冷たい唇に口づける。
 細い腕が、ジタンの背に絡みつく。
 唇の次は喉もと、喉もとの次はきれいな鎖骨。鎖骨の次は胸元──……ジタンは次々と冷え切った体に、熱を与えていく。
 あえやかな声がガーネットの口から洩れる。
 重ねあう。声も指も。熱をおびた体も。






 真白の雪が静かに降り積もる。

降り積もり、そして静かに大地に融けていく。
人の想いも、静かに大地に染み込んでいく。
それを木が吸い上げる。
やがて春が来て、見事な花を咲かせるために────



            

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