L`ord's Prayer
<3>



─主よ、我の願いを聞き届けたまえ─





 ──ここはくらい所。
じめじめとした空気が肌を通じて人の精気を奪い、人の存在を感じることがない見渡す限りの闇と静寂と、手足にくくりつけられた冷たい枷とが人の生気を奪うところ。
 人はその場所を死の牢、と呼ぶ。
 それは優美なるアレクサンドリア城の地下にひっそりと設けられ、存在を知る人は極端に少ない。そこは入ったが最後、死んでもでることが叶わないとささやかれる死の牢。
 そこに光はない。
 そこに音はない。
 そこに自分以外の生き物を感じることはない。
 食べる物も、水すら与えられない。
 そこを出るすべはない。
そこへ入れられた者は、静寂と闇の中で、ただ死を待つのみ。
 ……いまその地下牢の闇の中で、ぎらぎらと光る不気味な目が二つ、浮かんでいる。
 堅固な地下牢の一房。彼は、つい先ほどそこに投げ込まれた。
 物を扱うかのようにしてこの暗い闇の中に放られ、取り残され、乾いたかしゃんという音が響きそして足音が遠ざかっていくと、後には何も聴こえなくなった。鳥の声も、虫の声も、ネズミが這う音も、空気の流れさえ。
 冷たい枷をはめられた両足を両手で抱きしめ、彼はずっと闇を睨みつけていた。
 しばらくすると──もしかしたら、ほとんど時間はたっていないのかも知れない。なにしろ『時間』という感覚は全くないのだ──静寂の中にかすかにコツ、コツ……という音が響き始めた。
 それはだんだんと彼の方へ近づいてくる。
しかし彼は慌てることも何もしなかった。聴こえていないかのように、身じろぎ一つすることもなくじっと闇を睨みつけたままだ。
 やがて、その音は彼の牢のすぐ前で止まった。
シュッという音がすると、彼の牢に光が差し込んできた。それと同時に、初老の男の姿が牢の前に浮かび上がった。
「──……気分はどうかね?」
 男の、すこししわがれた低い声が牢に響く。それはこだまして、はるか向こうにまで響いた。
「…………」
 彼は、なにも聴こえていないかのように無言だった。視線を動かすこともない。
 そんな彼を見て、男は口元にふっと笑みをもらした。陰湿そうな、笑みだった。
「尋ねても、なにも分かるまいな。そのように、わしがしたのだから」
彼はなんの反応も示さない。男はますます口元を吊り上げた。
「結果は失敗したが、まぁいい。あの小娘も、もしや忠実な部下から裏切られるとは思いもよらなかったろう」
 クックッと、乾いた笑いが牢にこだまする。
「本来なら女王を殺し、その罪でおまえは処刑され、私が悠然と空いた王座にすわる計画だったが、仕方があるまい。変更だ」
 彼は動かない。けれど、そのぎらついた目はわずかだが険呑さを増した。
そんなことには男はまったく気づかずに、話し続ける。
 男の持つ蝋燭の火が、ジジ…と音をたて、影を揺らめかす。
「どういうふうに変更したか知りたいか?んん?」
 彼は何も答えない。それでも男は口を閉ざすことをしなかった。
別に目の前に幽閉されている彼が相手でなくともいいのだ。男は自分の途方もない策を誰かに教えてやりたくてうずうずしていた。
「直接的にこの国を手に入れることはやめた。あれをもって女王を操り、そしてこの美しいアレクサンドリアを影から支配する。わたしは影からこの国を意のままに動かす!そうすればあの気取った女将軍や目障りなプルート隊隊長も動かしやすかろう。小娘を操り……将軍やプルート隊を思うままに動かす……わたしは影の支配者となり、この王国を好きなようにできるのだ!ふはははは……!」
 彼はまたいっそう目をぎらつかせる。まるで人形が瞳にだけ意思を宿したかのように。
 男は気づかない。高らかに笑い、おっと、と呟いた。
「まだまだ計画は始まったばかりだが、もうおまえはいらん。ここに放っておけば死ぬだろうが、それではいまいち安心できん。もし助け出されて正気を取り戻されたら厄介なことになるからな。確実で、もっとも安心できるのがこの方法だ。おまえも、飢えて悶え苦しみながら死ぬよりはひとおもいにやられた方がいいだろう?……なぁに、おまえは十分に働いてくれた。あれの効果が完璧なモノだと証明してくれた。これは、その報奨だと思いたまえ。……さぁ、つぎでおまえがこの世で聞く最後の言葉になるぞ。女王陛下に忠実だった、実に優秀な官僚──トラスタよ」
 男はさらに口の端を持ち上げる。なんのためらいもなく、次の言葉を吐く。
この世でもっとも残忍かつ、簡潔な言葉。


「死ね」


 その言葉を聞いた瞬間、彼は動いた。いや、正確には、動かされた。
両手を自らの喉にあてがい、そして──あるだけの力を込めた。



 ───ガ……ネット……さま……───


最期にそう唇が動くと、彼は冷たい土に倒れ、そして、永久に動かなくなった。
なんの音もない場所に、その様を見届けた男はひとり、異形の影を揺らして笑い続けた。



 ここは、くらい場所。






 襲われた日から、ガーネットは部屋から出ることを禁じられ一日の大半を寝室で過ごすこととなった。
 女王の命を狙っていたのはトラスタだけではないかもしれない、もしかしたら仲間がいるかもしれない。そういってスタイナーとベアトリクスはこの部屋にガーネットを閉じ込めた。
寝室で、とは言っても一日の大半を眠って過ごしているわけではない。本来執務室で行うはずの執務は、現在、寝室に机を持ち込み、ベアトリクスまたはスタイナーが運んでくる書類を片付けることとなっている。定例の会議も、本来なら武人は同席することが許されないにも関わらず、非常時ゆえと彼らは随時女王の警護にあたった。
食事も寝室に運ばれ、ガーネットが部屋を出ることは事実上会議のためしかなかった。
 ……ジタンは、あの日から姿を見せない。
この寝室にも、城内にも、ベアトリクスやスタイナーのところにも。
今日中に片付けなければならない書類はすべて片付けてしまったガーネットはテラスに出、髪を風に遊ばせながら暗い気持ちでぼうっと手のひらにのせた髪飾りを見ていた。
 彼があの日消えてしまったテラス。
ガーネットに残されたのは、言いようのない不安と、彼がくれた銀の髪飾り。
『……わかった』
 最後に聞いたのは、あきらめと投げやりが入り混じった声。もういいよ、そうガーネットには聞こえた。
  ジタンはもう、事件のことを知ってしまったのかしら……
 遅かれ早かれ、きっと彼の耳に入ることだったのだ。あんなにむきになって隠すべきではなかったのかもしれない。ああまで隠そうとしたのは、彼を傷つけてしまうことや彼が離れていってしまうかもしれないことへの恐れと、自分から告げることからの逃げ──己の心の弱さ故であろう。
ジタンが姿を見せなくなって、すでに四日がたっていた。
その間に、地下牢に留置されていたトラスタが自害するということが起こった。
 アレクサンドリア城の地下牢は確かに死の牢と呼ばれている。中は出口のない地下迷路で、迷い込んだものは助からないと言われている。
だがそれは奥まった所の話で、以前が信頼できる人物であったためと、事情を詳しく聞くためにトラスタは入り口に比較的近いところにある牢屋に入れられていた。地下牢、とはいうが実際に整備された牢屋があるのは入り口に近い場所だけで、奥にはない。地下迷路に迷い込んだ者は死んでも帰れない、まるで地下迷路全体が牢屋だ、ということから地下迷路も含めて地下牢、と呼ばれている。
 事件を起こしたその事情を聞き出そうとスタイナーが彼を訪れたところ、トラスタは冷たい牢屋の中で自らの両手で首を絞め、果てていたらしい。
 正気の沙汰ではない。とガーネットはそれを聞いて身震いした。
どんな人間でも自己防衛本能があり、それを跳ね除けて己の首を自分で絞めて自害することなど、できることではない。
 ……けれど、トラスタはそれをした。
「いったいなにが、彼をそこまで……」
 女王を亡き者にしようとした罪悪からか、それとも女王殺害に失敗した絶望からか、彼が死んでしまった今となっては、分かるはずもない。
「ジタン……」
 まだ、まだなにかよくないことが起こりそうな予感がする。あの日から、胸騒ぎがやまない。
  そばに、いて欲しいのに……。
「いけない。わたし、またジタンに甘えてるわ……」
 自分を戒めるようにぎゅっと髪飾りを握り締める。
そのとき、うつむいていたガーネットの視界の端をなにかが横切った。
 なに?と思って視線をめぐらすと、その正体が知れた。
ひらひら、ひらひらと舞う、鮮やかな紫色の蝶だった。
 ガーネットは目を見開いてその蝶を凝視した。

『……もしかしたら、セーラ。その蝶は、死蘇蝶だったのかもしれない』

頭の中で、幼い声がよみがえる。
ガーネットの見つめる先で蝶はテラスの柵にとまり、その羽を休める。
その羽は大きく、先端に向かうほど薄い紫になっている。そして左羽の下方には、花のような小さな模様が。
古い記憶が、刺激される。
人は、死ぬと肉体は滅びやがて土となる。けれどもその魂は、心は風化されることはなく、いつまでも残るのだと。その肉体をなくした魂たちはやがて世界を彷徨い、いつしか蝶に姿を変え、愛しいところへと飛んでいくのだと。
 そう、幼い頃に少年によって教わった。
蝶は柵を離れ、再び宙を舞いだした。
ガーネットのまわりを回るようにしてひらひらと舞う蝶を、ガーネットはただ不吉な予感を感じながら見つめた。
そのとき、不意にドアがノックされる音が部屋に響いた。重ねて、
「陛下、イララ大臣が会議の前に少しお話をとおっしゃっていますが、いかがなさいましょう」
そう扉の向こうで告げる女将軍の声は少し控えめだった。
普段であれば、たとえ突然の訪問であろうとも議会で有力な発言力をもつイララ大臣に求められた面会はさけることが許されない。
それは、母がこの国を統治していたときとは政治の仕組みが大きく変わったせいである。アレクサンドリアの前女王が引き起こした世界戦争。あの戦が大きなものへとなってしまった大きな原因の一つに、代々アレクサンドリアがとってきた専制君主制の体制があげられた。王一人にすべての政治を任せるからだと。そうして、いろいろな者と何度も話し合いが行われた結果、王にすべての権力を授けないために、王に匹敵する力をもつ『議会』を設置することとなった。半数は貴族、半数は一般の民の中から選ばれた者で構成されており、この議会の発足により王は何かの法令を出すときや政策を打ち出す時などは議会に承認を求めることが義務付けされ、また議会のほうで採択され可決したものは王に承認を求めることが義務付けられた。つまりは王と議会両方の了承がなければ法は法として発布することができず、王と議会は対等の立場にあるといえる。
アレクサンドリアの大貴族出身のイララ大臣はその議会で有力な発言力をもち、まさに王に次いでアレクサンドリアで二番目に権力をもった人物といえる。彼の不興を買うのは得策ではない。
 だが、自分が命を狙われているかもしれないこの状況ならば、彼との面会は拒否することも可能だろう。それを思って扉の向こうのベアトリクスはガーネットにどうするか、と尋ねたのだ。

「……すぐに参りますと、伝えて」


 もしあれこれと理由をつけて面会を拒否すれば、イララ大臣は納得すれどガーネットを見くびるだろう。命を狙われて怯えるしかない、ただの娘だと。あの大臣に見くびられることは、したくない。
 すぐにガーネットはテラスから部屋の中へと入り、仕度をし、ジタンからもらった髪飾りで不揃いになった部分をとめて部屋を出た。すでに、蝶のことは頭の隅に追いやられている。
部屋の外ではベアトリクスが待ち構えていて、すぐにガーネットにぴったりとくっついて護衛をはじめる。
前を歩くガーネットに、不安の表情はない。ただ、挑むように前を睨んでいた。






「お待たせいたしました、イララ大臣」
 ベアトリクスが扉を開き、ガーネットは一呼吸おいて部屋の中へと入った。
中ではイララ大臣がソファに腰掛け、出されたお茶を飲みながら女王が来るのを待っていた。入室してきたガーネットの姿を見るなり、立ち上がって笑顔で彼女に近づいてくる。スタイナーは扉の近くにて、立ったまま控えていた。
「思ったよりもお元気そうでなによりですな」
「お気遣いありがとうございます」
「いやいや、アレクサンドリアの民ならば女王陛下のことを気遣うのは当たり前のこと。さあどうぞソファの方へ」
 すすめられ、ガーネットはソファに腰掛ける。
 しかし、内心おかしいと思っていた。
先日クシュハルト邸にて彼の息子との結婚を提案され、ガーネットはそれを退けた。
それ以来、彼はガーネットと会うたび何かしら厭味を言ってきたり嘲ったりと、もとからではあるが先日のこと以来いっそうガーネットにとって厭な人物となっていた。
 それが、今日の態度はどうだろう。
おしげもなく厳格そうな顔をにこにこと歪め、ガーネットのことを歓迎している。
 おかしい。
 なにかあると思ったのは、ガーネットだけではないようだ。ベアトリクスも、いつも以上に油断なく彼を見張っている。
「会議の前にすみませんな。どうしても、女王陛下にお聞きしたいことがありまして」
「なんでしょう」
「陛下には、私と結婚する意志はおありかな?」
「は?」
 これにはガーネットもベアトリクスも目を剥いた。
 二人ともが耳を疑った。
イララ・クシュハルトといえばもう五十の手前の年齢。それも、ガーネットと歳の近い息子もいれば、妻もいるはずだ。それが、まだ十八にもならないガーネットとの結婚を提議するとは!
「あの、それは……」
 真意がわからず問おうとしたガーネットの言葉は、途中で遮られた。
「近頃、珍しいものを手に入れましてな」
 話題ががらりと変えられた。ガーネットはついていけずに、混乱した。
 いったいこの男はなにを考えているのか。
そのイララ・クシュハルトは、ほら、と言って窓際を指差した。
ガーネットは警戒しながらも、そちらに目を向ける。
「!」
まっさきに飛び込んできたのは、鮮やかな紫色。
「珍しい、蝶です」
 窓のあたり、部屋の中を、ひらひらと飛んでいる。それは紛れもなく、さきほどガーネットが見た蝶だった。
「あれは……」
ガーネットは声を震わせた。視線の先で蝶が、日の光を浴びながら、ひらひらと飛んでいる。光りに少し透けた紫の蝶は、不気味なほどに美しかった。
「死蘇蝶、と呼ばれる蝶ですよ」
ご存知かな?と問い掛けられたが、ガーネットには何も答えられなかった。
「はじめはなんの変哲もないものだと思っておったのですが……これが不思議な鱗紛(りんぷん)を持っておるのですよ」
「不思議な……鱗紛?」
問い返しながら、ガーネットは身を硬くした。警戒する。
「そう。その鱗紛はたいそう不思議な粉で、浴びたものは操り人形のような状態になる。わたしの言うことしか、聞かなくなるのですよ」
 その言葉に、ベアトリクスが動いた。素早くガーネットとクシュハルト氏の間に入り、剣を抜こうとした。が、
「スタイナー」
クシュハルト氏が、たった一言、そう呼んだ。
「なっ……!」
それに、ベアトリクスは気を取られてしまう。
その間に壁際に控えていたスタイナーがすばやく剣を抜き、ベアトリクスが剣を抜ききる前に切っ先を突きつけた。
「スタイナー……!?」
ベアトリクスが、悲壮な声を洩らした。
冷血将軍とも呼ばれる彼女がそんな声を洩らしたのは、これが初めてだ。
ガーネットも、ただ驚愕してスタイナーを見つめるばかりだった。
だが、彼にはベアトリクスの声は聴こえていない。目つきは普段の彼とは全く違っていて、あの時のトラスタと同じ目をしている。
 そう思って、まさか、とガーネットは呟いた。
 クックック、とイララ・クシュハルトは陰湿に笑う。
「その効果はすばらしいものですな。女王陛下第一の付き人、スタイナー殿でさえこうも簡単に意のままに操れてしまうのですから。操られた者は、命令されれば自らの命を絶つことさえやってのけてしまう……実に、素晴らしい」





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