ガーネットが自分の私室へと戻り、ようやく少し気を休めることができたのは、日暮れの近い、夕方のことだった。
それまでベアトリクスやスタイナーたちが止めるのを押し切って通常どおりの政務をこなし、また昼間に起きた事件について、スタイナーにトラスタの措置と聴取をまかせた。
その後聴取のため、地下へと投獄されたトラスタを訪ねたスタイナーは、トラスタのことを昼間とは打って変わって口を一切閉ざし、どこか一点を見つめたまま動こうとせず、まるで廃人のようだ、と言っていた。
部屋の中は、薄暗い。
ふわりとしたカーテンが結び付けられた窓の向こうでは、すでに日が傾き始めている。
不揃いになってしまった一房の髪に触れ、どうしようかとガーネットは扉に背中をもたせて悩む。
はやくなんとかしなければ。日が完全に沈んでしまえば、彼が帰ってくる。彼はこの髪を見て、その原因を問うてくるだろう。そうなったとき、ガーネットはうまくかわす自信がない。
いっそ切りそろえてしまって、気分転換したかったの、と言えば素直に信じてくれるだろうか、とさえ思ってしまう。
昼間起こったことを彼に伝えるつもりは毛頭なかった。
『男にうつつをぬかす女王に、正しい政治なぞできるものか!』
そうトラスタに思わせてしまったのは、他ならぬ自分。自分の力が足りなかったせいだ。決して、彼のせいではない。
けれど、昼間起こったことが彼の耳に入ってしまったら、彼はきっと傷つく。いくらわたしのせいだと言っても、彼は自分を責めるだろう。
そんなこと、させたくはない。
……自分が彼とともにいることで、あんなふうな見方をされてしまうなんて……。
『忘れてはなりませんぞ。あれは、まがうことなき民の声。アレクサンドリアの民の一人の声です』
その通りだ。確かに、あれもアレクサンドリアの民の声。アレクサンドリアのすべての民の声ではないが、一部の声ではある。
民の声をすこしでも反映させるのが、為政者のつとめ。
では、どうすればいいのか───。
ガーネットの心のなかにひとつの石が投げ込まれて、それは荒い音をたてて波紋を広げた。即座に浮かんだ考えに、すぐさま首を振る。
それは、
────『彼から離れる』
「いや……っ」
それだけは。それだけはいやだ。彼から離れるなんて!
考えただけで、身を切りつけられたような痛みがガーネットを襲う。
もう二度と、彼と離れたくはない。あの言いようのない寂しさと空虚さでいっぱいだった、待つことしかできない日々に戻りたくない。
………──でも、そうすることでしか、解決しないのだろうか───。
一緒にいることが誤解を招いてしまうのなら、一緒にいてはならないのか。
「……好きな人と一緒にいたい。ただそれだけなのに……」
自然とそんなセリフが洩れた。……『君の小鳥になりたい』の、コーネリアの台詞。
そう。ただ、一緒にいたい。それだけなのに、どうして自分たちはそうは簡単にはいかないのだろう。
「わたしが、女王だから……」
その呟きは、そっと空に溶けた。それと同時に、コトン、という小さな音が。
「ガーネット?」
「!」
その聞きなれた呼びかけに驚き、窓に視線を向ける。
ジタン、とそう呼んだつもりが、声にはならなかった。
ここは城の中でもかなり高い位置にあるというのに、彼はまるで何事でもないかのようにそこにいた。窓の外のテラスに。
彼がガーネットの部屋を訪れるときは、大抵そうだった。
『前にガーネットの部屋へ入ろうとしたとき、スタイナーのおっさんが入り口でずぅーっと見張っててさ。それでおれが部屋へ近づこうとするとこう言うんだぜ、男が神聖なる女王陛下の寝室へ入ろうとするとは何事か!ってな。あいにくと、目的の宝がすぐ目の前にあるのに邪魔されて焦らされるのは好きじゃないんだ』
いくらあぶないからとガーネットが諭しても、彼はこっちの方が早いからと言って聞かなかった。
そしていま、夕焼けに染まる空を背景に、いつもの優しい笑顔を浮かべガーネットを見つめてそこに立っている。
「お、おかえりなさい。早かったのね。久しぶりにブランクたちと会うって言っていたのに」
必死に平静を装って、問いかける。静まることを知らないかのような鼓動をどうにか落ち着けようと、そっと胸元へ手をやる。もう片方の手は、無意識に隠すように不揃いになってしまった髪へ。
「やっぱり、はやく帰ってガーネットの顔が見たくなって」
へへ、と愛嬌のあるいつもの笑顔で笑って、ジタンはテラスから部屋の中へと入った。
「タンタラスの連中は相変わらずだったよ。ボスはなんか用事があるみたいでいなかったけど、皆元気でやってるみたいだ。もうちょっとしたら次は黒魔導師の村へ行って公演するって言ってた」
「そうなの?黒魔導師の村のみんな、喜ぶでしょうね」
『自然』に見えるように笑顔を無理につくろって、明るく答える。
彼はガーネットのどんな変調も見逃さない。ちょっとした仕種や声ですぐにガーネットの状態をズバッと見抜いてしまうことが、よくあるのだ。だから、『自然』を装ってガーネットは懸命に笑おうとする。彼に感づかせまいと。
けれど、いままでもそうであったように、どんなに『自然』を装ってもジタンの目をごまかすことなど、いつだってできはしないのだ。
「………ガーネット?」
彼が怪訝な表情をする。ゆっくりと扉の前にいるガーネットへと近づく。
「どうしたんだ、ガーネット」
「え?な、何も……」
懸命に『自然』を保とうとしたけれど、声が少しうわずった。ジタンは表情をすこし険しくする。
「本当に、なんでもないのよ。ただ、少し気分が悪いだけ」
「大丈夫か?気分が悪いならきちんと休んでないとダメじゃないか」
気遣うようにそっと手をガーネットの額にあてて、顔をのぞき込む。
ガーネットは思わず後ずさりしそうになって、自分が扉を背にしていたことを思い出した。
「平気よ。それよりジタン、タンタラスのみんなのことをもっと聞きたいわ。それに、リンドブルムの復興作業のほうはどんな感じだった?」
話題を変えようと、彼が帰ってきたら聞こうと思っていたことを並べる。ジタンは彼女の肩に手を置いて椅子へと促し、彼女をすわらせた。
「復興作業はかなり順調だった。街並みはほとんど前と同じようになってたし……ああ、そうだ」
ジタンはそう言ってポケットから何かを取り出すと、それをガーネットに見せた。
「!」
目の前に差し出された、ジタンの手のひらの上で銀色に光るそれを見た瞬間、鼓動がこれ以上ないというぐらいに跳ねガーネットは自分の顔色が余計に悪くなったことを自覚した。
「リンドブルムの商業区で売ってたんだ。綺麗な銀細工だろ。この髪飾り」
どうか部屋の薄暗さの所為だと思ってくれますように、と願いながら、ガーネットはティアラのような形をし、表面には細かに細工を施された髪飾りを手にとってうれしげに笑ってみせる。
「とっても綺麗だわ。ありがとう、ジタン」
ところが、見上げた先のジタンは目を大きく開いて、ガーネットを凝視していた。ジタンの視線の先に、ガーネットはハッとなる。
ジタンの視線はガーネットの右手へ、不自然に不揃いになってしまった一房の髪を握る手へと、それのみに注がれていた。
「ガーネット……?どうしたんだ。その、髪……」
やはり、と。彼を相手に、隠しきれるわけがないのだ、と頭のどこかで声が聴こえた。
ああ、どうか何も言わないで。
険しくなる表情。今にも理由を問いたげな瞳。それらを向けられて、ガーネットは胸がつまる思いだった。
「なにが、あったんだ……?」
なにも、と言いたかった。けれども彼の目を見たら声が出てくれず、うつむいて弱々しく首を横に振るだけになった。
ガーネット、と呼んで、ジタンは髪を隠す手にそっと触れた。ゆっくりと彼女の指をはずし、はじめはかたくなに指を解かなかった彼女も、ごまかせない、と観念して指の力を抜いた。
「どうして……」
あらためて無残に切られた一房の髪を見つめ、それを手にとって、ジタンは吐息のように呟いた。
「おれのいない間に、なにがあった……?」
ともすれば息が届くほどの距離。彼と自分の距離はゼロに近く、ジタンはまっすぐにガーネットの目を見つめる。
「ガーネット」
漆黒の夜空を思わせる黒い瞳と、よく晴れた夏の空を思わせる青い瞳がぶつかり合う。
相手の眼差しに、真っ先に耐えられなくなったのは、ガーネット。数秒さえもたずにすぐさま視線を横にそらしてしまった。
「……なにを、隠してるんだ?」
城内の官吏たちの声さえ届かない部屋に、夕暮れを告げる鳥たちの鳴き声が遠くから聴こえてくる。それを遮ることさえなく彼は静かな声で問う。
言えるはずがない。知らせる気もない。
だが、どうしたらよいのかわからない。彼の声は決して高圧的ではなく、切なげで寂しさを帯びている。それがまた、事情を打ち明けられないガーネットにはつらかった。
「なにがあった?……なにを、隠してるんだ?」
ガーネットは何も言えない。うつむいた顔を両手で覆って、ただ首を横に振った。
ジタンは、先日のトレノでのことを思い出していた。
あのときも、彼女は自分には何も言わずに危険なところへ飛び込んで行った。
自分には、なにも言わずに────…………
「…………───そんなに、おれは頼りにならないか……?」
「ちがうわ!」
さっきよりも小さな声。切なげな問いかけにガーネットは即座に首を振る。
「ちがうの。そうじゃないの。でも……!」
どうしたらよいのだろう。どう言ったらよいのだろう。このままでは事件のことを伝えなくとも、伝えないことで彼が傷ついてしまいそうで、恐かった。それでも、伝える気にはなれない。
だんだんと暗くなっていく部屋の中と同じように、だんだんとガーネットの心も重みが増して苦しくなっていった。
沈黙がふたりの間に降りる。……しばらくして沈黙を破ったのは。
「───わかった」
やけにはっきりとその言葉が耳に届いて、ガーネットは思わず視線を上げ、彼を見た。
「ジタン!」
彼はガーネットに背を向け、窓辺へと歩み寄っていた。とっさに声をかけたが、彼はそれを無視してテラスへ出ると、その姿を消してしまった。
ガーネットは急いでテラスに出、あたりを見回したが彼の姿は完全に夕暮れの後の闇に隠されて、その気配すらつかめなかった。
「………っ」
足の力が抜け、ガーネットはなかば倒れるようにしてテラスに座り込んだ。
あたりは一面の闇。太陽の光のかけらさえなかった。
いまだ重い苦しみのひかない胸を真っ白な手で押さえ、そこから言いようのない、得体の知れない不安という波が自分のなかに広がっていくのをガーネットは確かに感じて身を震わせる。
「……ジタン……!」
テラスのひんやりとした床がいっそう、ガーネットの心を凍えさせた。
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