L`ord's Prayer
<2>



─主よ、我の願いを聞き届けたまえ─





 ガーネットが自分の私室へと戻り、ようやく少し気を休めることができたのは、日暮れの近い、夕方のことだった。
それまでベアトリクスやスタイナーたちが止めるのを押し切って通常どおりの政務をこなし、また昼間に起きた事件について、スタイナーにトラスタの措置と聴取をまかせた。
その後聴取のため、地下へと投獄されたトラスタを訪ねたスタイナーは、トラスタのことを昼間とは打って変わって口を一切閉ざし、どこか一点を見つめたまま動こうとせず、まるで廃人のようだ、と言っていた。
部屋の中は、薄暗い。
ふわりとしたカーテンが結び付けられた窓の向こうでは、すでに日が傾き始めている。
不揃いになってしまった一房の髪に触れ、どうしようかとガーネットは扉に背中をもたせて悩む。
はやくなんとかしなければ。日が完全に沈んでしまえば、彼が帰ってくる。彼はこの髪を見て、その原因を問うてくるだろう。そうなったとき、ガーネットはうまくかわす自信がない。
いっそ切りそろえてしまって、気分転換したかったの、と言えば素直に信じてくれるだろうか、とさえ思ってしまう。
昼間起こったことを彼に伝えるつもりは毛頭なかった。


『男にうつつをぬかす女王に、正しい政治なぞできるものか!』


そうトラスタに思わせてしまったのは、他ならぬ自分。自分の力が足りなかったせいだ。決して、彼のせいではない。
けれど、昼間起こったことが彼の耳に入ってしまったら、彼はきっと傷つく。いくらわたしのせいだと言っても、彼は自分を責めるだろう。
そんなこと、させたくはない。
……自分が彼とともにいることで、あんなふうな見方をされてしまうなんて……。
『忘れてはなりませんぞ。あれは、まがうことなき民の声。アレクサンドリアの民の一人の声です』
 その通りだ。確かに、あれもアレクサンドリアの民の声。アレクサンドリアのすべての民の声ではないが、一部の声ではある。
 民の声をすこしでも反映させるのが、為政者のつとめ。
 では、どうすればいいのか───。
 ガーネットの心のなかにひとつの石が投げ込まれて、それは荒い音をたてて波紋を広げた。即座に浮かんだ考えに、すぐさま首を振る。
それは、


 ────『彼から離れる』

「いや……っ」
それだけは。それだけはいやだ。彼から離れるなんて!
考えただけで、身を切りつけられたような痛みがガーネットを襲う。
もう二度と、彼と離れたくはない。あの言いようのない寂しさと空虚さでいっぱいだった、待つことしかできない日々に戻りたくない。
 ………──でも、そうすることでしか、解決しないのだろうか───。
一緒にいることが誤解を招いてしまうのなら、一緒にいてはならないのか。
「……好きな人と一緒にいたい。ただそれだけなのに……」
 自然とそんなセリフが洩れた。……『君の小鳥になりたい』の、コーネリアの台詞。
そう。ただ、一緒にいたい。それだけなのに、どうして自分たちはそうは簡単にはいかないのだろう。
「わたしが、女王だから……」
その呟きは、そっと空に溶けた。それと同時に、コトン、という小さな音が。


「ガーネット?」


「!」
その聞きなれた呼びかけに驚き、窓に視線を向ける。
ジタン、とそう呼んだつもりが、声にはならなかった。
 ここは城の中でもかなり高い位置にあるというのに、彼はまるで何事でもないかのようにそこにいた。窓の外のテラスに。
 彼がガーネットの部屋を訪れるときは、大抵そうだった。
『前にガーネットの部屋へ入ろうとしたとき、スタイナーのおっさんが入り口でずぅーっと見張っててさ。それでおれが部屋へ近づこうとするとこう言うんだぜ、男が神聖なる女王陛下の寝室へ入ろうとするとは何事か!ってな。あいにくと、目的の宝がすぐ目の前にあるのに邪魔されて焦らされるのは好きじゃないんだ』
いくらあぶないからとガーネットが諭しても、彼はこっちの方が早いからと言って聞かなかった。
 そしていま、夕焼けに染まる空を背景に、いつもの優しい笑顔を浮かべガーネットを見つめてそこに立っている。
「お、おかえりなさい。早かったのね。久しぶりにブランクたちと会うって言っていたのに」
 必死に平静を装って、問いかける。静まることを知らないかのような鼓動をどうにか落ち着けようと、そっと胸元へ手をやる。もう片方の手は、無意識に隠すように不揃いになってしまった髪へ。
「やっぱり、はやく帰ってガーネットの顔が見たくなって」
 へへ、と愛嬌のあるいつもの笑顔で笑って、ジタンはテラスから部屋の中へと入った。
「タンタラスの連中は相変わらずだったよ。ボスはなんか用事があるみたいでいなかったけど、皆元気でやってるみたいだ。もうちょっとしたら次は黒魔導師の村へ行って公演するって言ってた」
「そうなの?黒魔導師の村のみんな、喜ぶでしょうね」
 『自然』に見えるように笑顔を無理につくろって、明るく答える。
彼はガーネットのどんな変調も見逃さない。ちょっとした仕種や声ですぐにガーネットの状態をズバッと見抜いてしまうことが、よくあるのだ。だから、『自然』を装ってガーネットは懸命に笑おうとする。彼に感づかせまいと。
 けれど、いままでもそうであったように、どんなに『自然』を装ってもジタンの目をごまかすことなど、いつだってできはしないのだ。
「………ガーネット?」
 彼が怪訝な表情をする。ゆっくりと扉の前にいるガーネットへと近づく。
「どうしたんだ、ガーネット」
「え?な、何も……」
 懸命に『自然』を保とうとしたけれど、声が少しうわずった。ジタンは表情をすこし険しくする。
「本当に、なんでもないのよ。ただ、少し気分が悪いだけ」
「大丈夫か?気分が悪いならきちんと休んでないとダメじゃないか」
 気遣うようにそっと手をガーネットの額にあてて、顔をのぞき込む。
ガーネットは思わず後ずさりしそうになって、自分が扉を背にしていたことを思い出した。
「平気よ。それよりジタン、タンタラスのみんなのことをもっと聞きたいわ。それに、リンドブルムの復興作業のほうはどんな感じだった?」
 話題を変えようと、彼が帰ってきたら聞こうと思っていたことを並べる。ジタンは彼女の肩に手を置いて椅子へと促し、彼女をすわらせた。
「復興作業はかなり順調だった。街並みはほとんど前と同じようになってたし……ああ、そうだ」
 ジタンはそう言ってポケットから何かを取り出すと、それをガーネットに見せた。
「!」
 目の前に差し出された、ジタンの手のひらの上で銀色に光るそれを見た瞬間、鼓動がこれ以上ないというぐらいに跳ねガーネットは自分の顔色が余計に悪くなったことを自覚した。
「リンドブルムの商業区で売ってたんだ。綺麗な銀細工だろ。この髪飾り」
 どうか部屋の薄暗さの所為だと思ってくれますように、と願いながら、ガーネットはティアラのような形をし、表面には細かに細工を施された髪飾りを手にとってうれしげに笑ってみせる。
「とっても綺麗だわ。ありがとう、ジタン」
 ところが、見上げた先のジタンは目を大きく開いて、ガーネットを凝視していた。ジタンの視線の先に、ガーネットはハッとなる。
ジタンの視線はガーネットの右手へ、不自然に不揃いになってしまった一房の髪を握る手へと、それのみに注がれていた。
「ガーネット……?どうしたんだ。その、髪……」
 やはり、と。彼を相手に、隠しきれるわけがないのだ、と頭のどこかで声が聴こえた。
ああ、どうか何も言わないで。
 険しくなる表情。今にも理由を問いたげな瞳。それらを向けられて、ガーネットは胸がつまる思いだった。
「なにが、あったんだ……?」
 なにも、と言いたかった。けれども彼の目を見たら声が出てくれず、うつむいて弱々しく首を横に振るだけになった。
 ガーネット、と呼んで、ジタンは髪を隠す手にそっと触れた。ゆっくりと彼女の指をはずし、はじめはかたくなに指を解かなかった彼女も、ごまかせない、と観念して指の力を抜いた。
「どうして……」
 あらためて無残に切られた一房の髪を見つめ、それを手にとって、ジタンは吐息のように呟いた。
「おれのいない間に、なにがあった……?」
 ともすれば息が届くほどの距離。彼と自分の距離はゼロに近く、ジタンはまっすぐにガーネットの目を見つめる。
「ガーネット」
漆黒の夜空を思わせる黒い瞳と、よく晴れた夏の空を思わせる青い瞳がぶつかり合う。
相手の眼差しに、真っ先に耐えられなくなったのは、ガーネット。数秒さえもたずにすぐさま視線を横にそらしてしまった。
「……なにを、隠してるんだ?」
 城内の官吏たちの声さえ届かない部屋に、夕暮れを告げる鳥たちの鳴き声が遠くから聴こえてくる。それを遮ることさえなく彼は静かな声で問う。
  言えるはずがない。知らせる気もない。
 だが、どうしたらよいのかわからない。彼の声は決して高圧的ではなく、切なげで寂しさを帯びている。それがまた、事情を打ち明けられないガーネットにはつらかった。
「なにがあった?……なにを、隠してるんだ?」
 ガーネットは何も言えない。うつむいた顔を両手で覆って、ただ首を横に振った。
ジタンは、先日のトレノでのことを思い出していた。
あのときも、彼女は自分には何も言わずに危険なところへ飛び込んで行った。
  自分には、なにも言わずに────…………
「…………───そんなに、おれは頼りにならないか……?」
「ちがうわ!」
 さっきよりも小さな声。切なげな問いかけにガーネットは即座に首を振る。
「ちがうの。そうじゃないの。でも……!」
 どうしたらよいのだろう。どう言ったらよいのだろう。このままでは事件のことを伝えなくとも、伝えないことで彼が傷ついてしまいそうで、恐かった。それでも、伝える気にはなれない。
だんだんと暗くなっていく部屋の中と同じように、だんだんとガーネットの心も重みが増して苦しくなっていった。
 沈黙がふたりの間に降りる。……しばらくして沈黙を破ったのは。


「───わかった」



 やけにはっきりとその言葉が耳に届いて、ガーネットは思わず視線を上げ、彼を見た。
「ジタン!」
 彼はガーネットに背を向け、窓辺へと歩み寄っていた。とっさに声をかけたが、彼はそれを無視してテラスへ出ると、その姿を消してしまった。
 ガーネットは急いでテラスに出、あたりを見回したが彼の姿は完全に夕暮れの後の闇に隠されて、その気配すらつかめなかった。
「………っ」
 足の力が抜け、ガーネットはなかば倒れるようにしてテラスに座り込んだ。
あたりは一面の闇。太陽の光のかけらさえなかった。
 いまだ重い苦しみのひかない胸を真っ白な手で押さえ、そこから言いようのない、得体の知れない不安という波が自分のなかに広がっていくのをガーネットは確かに感じて身を震わせる。
「……ジタン……!」
テラスのひんやりとした床がいっそう、ガーネットの心を凍えさせた。






  なにか、溜め込んでいるにちがいない。
 官吏たちがあっちへこっちへと走り回り、大声の絶えない城内の廊下を自らも走りながら、ジタンは目的の人物を探した。
 ……いつもそうなんだ。つらいことがあっても、苦しいことがあっても、泣き言を決して言わずに、内に溜め込む。逆に心配させまいと、無理に明るく振舞う。
……少しぐらいは頼れよ、と何度思ったことか。
いくら努めて明るく振舞ったって、無理していると彼にはすぐにわかるのだ。
しかしそう言えば増して無理になんでもないふりをしようとすることを悟って、頼れ、と彼女に言うのをやめた。ただそっと頭を撫でてやったり、抱き寄せてやったり、そんな方法で慰めるしかなかった。
 けれど、先ほどの彼女の様子は明らかにおかしかった。何か溜め込んでいるには違いないが、その溜め込んでいるものが、常とは違うような気がしたのだ。言うなれば、この間の、トレノに行く前の彼女と同じ状態だ。
 なにが起こったのかを確かめようといま、こうして城内を走り回っている。
 途中すれ違おうとした官吏たちの何人かにその人物の居場所を尋ね、四人目でやっとその居場所を教わり、一直線にそこを目指す。官吏たちに何が起こったのか尋ねてもいいが、やはりあの二人のどちらかに尋ねたほうが早いし確実というものだ。
 教えられた場所は正面門の近く。東警備塔の入り口のすぐ隣にある部屋だった。ドアの前に立ち、ノックをしようと手をのばした時、中から声が聴こえてきた。
『……ことがことです。けっして陛下をお一人になさることがないように警護を徹底いたしましょう』
 それは間違いなく探していた人物たちの声で、しかもかなり緊迫した声だった。思わず昔のくせでドアに身を寄せ、耳をそばだてる。──そんな必要はないというのに。
『まさか、こんなことが起きるとは……。あのトラスタは陛下に忠実で、優秀な官吏だった。ガーネット様も、奴を信頼しておられた……さぞかしお心を痛めておられよう』
『……原因が、原因ですし……』
 ──だから、こんなことっていうのと、その原因ってのは、いったい何なんだよ?
 耳をそばだて、少しも音を立てることがないよう気を配りながら、まるで全身が耳になったかのようにジタンは全神経を集中させ二人の会話を聞き取ろうとしていた。
『二人を……引き離すべきなのだろうか』
『スタイナー!』
  二人ってのは……もしかして、おれたちのことか?
  ……引き離す?
『わかっておる。……わかっておるのだ、ベアトリクス。そんなことをしてもますます陛下がお心を痛められるだけだと。だが、だがどうすればよいのだ!』
『たしかに……一時的にでもお二人をすこし離しておいたほうが、反対派の連中をなだめる意味でよろしいのかも。けれど』
『あやつにどうして言えよう!?』
 ダン!とテーブルを叩きつけるような音がドア越しにジタンの耳に届いた。
『───陛下のお命が狙われたのは二人が共にいるからだと!どうして口に出せよう!だから少しの間だけでも離れてくれなどと!』
 再びダン!とテーブルを叩きつけるような音。しかしそれは先ほどよりも数倍力が込められ、激しい。そして、ジタンの体の中にまでずしりと響いた。
『陛下は……彼と共にいるとき、本当にお幸せそうな顔になられますもの。あのお顔を見れば、離れてくれなど、誰も言えなくなるでしょうに……』
 ───その後の記憶は彼にはない。
 ただ、気づかれぬようその場を夢中で離れた。それは覚えている。




 気づくと、暗い城下町を一人歩いていた。
路地には猫の子一匹おらず、ときおり民家の食卓を照らす光が外に洩れているだけ。そのすぐそばを通ると家の中のにぎやかな声が聴こえてきて、なんだかそれがすごくいまの自分とはかけ離れた世界のことのように感じられた。まるで高い壁が目の前にあるかのように。
居たたまれず路地を突き抜け、ジタンは暗い路地裏へと駆け込む。
「───ちくしょうっ!」
 叫んで、手近な壁を思い切り殴りつけた。
皮膚は傷つき、赤いものが流れ出したがそんなことに構いはしない。
「ちくしょう……!」
 守りたいんだ。
 命の危険になんか、決して晒させたくないんだ。
 だから、自分が彼女を守ると決めた。この手で彼女を守ると。
 そう改めて誓ったのは、離れていたとき。
 イーファの樹の下で彼女に別れを告げ、生きて帰ると約した。
そして奇跡的にも生き延び、彼女との約束を守るため、彼女もとへ帰りたいがために、霧が晴れてもなお魔物がはびこるこの世界を必死で生き抜いてきた。何度も危ない目に遭った。あきらめそうなときもあった。
 そんなとき支えになったのは、ただひとつ。彼女のもとへ帰りたいという願い。
 生きて彼女のもとへと戻り、そしてずっと彼女の声を聴いていたい。
だから、そのために彼女を──自分の居場所を守っていきたい。再び彼女に逢うことができたなら、この手で守ってゆこうと決めたのだ。
 ガーネットを守りたいからこそ、彼女の傍に在りたいからこそ、彼女のもとへと帰ってきたはずなのに───
「そのおれが、おまえの命を脅かす原因になっちまうなんて……!」
 皮肉だ。
 目頭が熱くなって、ジタンは笑った。
 なぜだか、わらった。



「ちくしょう───!!」






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