夢のあと。





────夢をみた。




 お気に入りの場所。
冷たい石の上に腰掛けて、強く照りつける日の光を浴び遠くに広がる深青の海を見遣る。渇いた風になされるまま伸びた黒髪を遊ばせて、時折風に混じった砂に瞼を伏せる。
 少し下を見下ろせば、円形にぐるりとそびえ立つ壁がある。
 大人たちは滅多に自分たち子供をその中へは入れてくれない。
けれど、父と母に手をひかれて入ったその円形の壁の内側には、躍動感あふれるたくさんの美しい獣たちが描かれていることを、自分は知っている。そこが、『しょうかんへき』という、一族の聖地とも呼べる場所だということも。

 一度でそこが気に入った。
静かで、ピンと張り詰めた不思議な空間が大好きだった。壁一面に描かれた獣たちから感じられる、強い生命の力も。
 でも、大人は滅多にそこへは入れてくれない。
 だから、自分はこの場所を見つけた。
大好きな空間を上から見下ろせて、空が近くて、海が見えて、その上大人たちには見つかりにくいこの場所を。
 今は家には帰りたくない。でも他に行くところがなくて、さっきから白い素足をブラブラともてあまして、円形の壁と、海と空の境界線をぼんやりと眺めていた。
  お母さん、しんぱいしてるかな……。
 家を出るときに母に何も言わずに来たことを、少し後悔していた。
「……やっぱりここにいた」
セーラ、と静かな声に呼ばれて、振り向く。やさしい緑の瞳をした少年がそこにいた。
「アルクゼイド……」
ホッと安堵して、彼の名前を呼んだ。
 アルクゼイドは若草色の双眸をやさしく細めてこちらに近づくと、となりにすわった。
「……お母さん、心配してたよ。きみのこと」
「……そう」
「また、やつらにいじめられたの?」
 セーラはうなだれた。半分正解で、半分はちがう。
「気にすることはないよ。あいつらは、セーラがあんまりにもかわいいからなんとか気をひこうとして、ついつい心にもないことを言ったりしちゃうんだ」
 気にすることはないよ。ともう一度アルクゼイドは言った。
あいつら、というのは、同じくこの村に住む二人の少年たちのことだ。この村には子供がセーラとアルクゼイドを含めて、四人いる。女の子はセーラだけで、だからなのかもしれないが、セーラはその二人によくいじめられる。突然心無い言葉を浴びせられたり、苦手なブリ虫をわざと目の前に突き出されたり……嫌がるが二人はやめてはくれず、そのたびに一番年長のアルクゼイドが助けてくれる。今となってはもう一人では家の外に出るのも恐くて、アルクゼイドに頼ってばかりだ。
 アルクゼイドは、他の二人とは違って、セーラに対してやさしい。セーラと二つしか違わないのに不思議と落ち着いていて、物知りで、一緒にいると楽しいし、安心する。
「さぁ、家に帰ろう?」
 そう言って、彼は手を差し出した。
差し出されたアルクゼイドの手を見、それから彼の顔を見、セーラはゆっくりと視線を落とした。
「……家に帰りたくないの?なにか、いやなことでもあった?」
 怪訝そうな顔をして、彼はセーラの顔を覗きこんだ。セーラの視界に、若草色の瞳とやわらかそうな短めの茶色の髪が入った。
「ちょうをね……見つけたの」
「蝶?」
うん、とうなずいた。
 そう、今日、セーラは川の近くで一匹の蝶を見つけた。
この村では滅多に蝶を見ることなんてない。セーラにははじめ、それがなんであるのか分からなかった。休むように石の上にとまったそれを、食い入るようにして観察した。
二対の羽は深い紫色で、日の光で透けてしまうほど薄かった。外側から中心の『身』へかけて、だんだんと色が薄くグラデーションになっている。
セーラは思わずそっと手を伸ばして、それを捕まえた。それはまったくと言っていいほど、抵抗しなかった。
そうして、そのまま家に連れて帰ったのだ。
けれど、セーラが持ち帰ったものを見た瞬間、セーラの父は表情を凍らせた。
『なんということだ!すぐにその蝶をもとのところへ放してきなさい!』
 セーラは身を竦ませて怯えた。
声が恐かった。眉を吊り上げた父親の表情も。恐くて、それ以上そこにはいられなくて、逃げるように蝶を連れて家から飛び出した。
  だって、こわかった………。
 もともとセーラの父親は、いつも口数が少なくて、かまってもらったこともあまりない。でも、さっきみたいに『こわい』なんて思ったことはなかったのだ。怒鳴られたことも、今までなかった。
 セーラは走って川辺に戻って、言われた通り蝶を放した。
なぜ珍しい蝶を連れ帰っただけであんなにも怒られてしまったのかは分からないけれど、父親の怒鳴り声と重なって、途端にそれが恐ろしいものに見え出した。
蝶はひらひらと川の上を飛び、そうしてどこかへと行ってしまった。
セーラは少し安堵して、早く立ち去ろうと踵を返した。だがちょうどそのとき、運悪く例の少年たちに見つかってしまったのだ。
 セーラは慌てて走って、そうしてここに逃げてきた。あの二人は、この場所を知らない。この場所を知っているのは、自分と、アルクゼイドだけだから。
 でも、今度は逆に見つかるのを恐れてここから動けなくなった。父のことを考えると、帰ることへの恐れはもっと増した。
仕方なく、ここでずっと円形の壁と海と空とを眺めていた。そうしていると、円形の壁から感じられる不思議な空気も、海も空も何もかもが、自分を受け入れてくれるような気がするから。

 ……それらをすべて話し終えると、アルクゼイドは何かを考えるような表情になって、じっと黙った。
「……もしかしたら、セーラ。その蝶は、『死蘇蝶』だったのかもしれない」
その声があまりにも慎重で静かだったので、セーラは少し不安になった。
「しそちょう?」
「うん、そう。その紫の蝶、羽の下のほうに、花みたいな模様がなかった?」
そういえば、あったような気がする。左羽の下の方、紫がまだ濃いところに花のような模様があった。
「大ジジさまから聞いたことがある。死蘇蝶は、人が捕まえちゃいけないんだ」
「どうして?」
「死蘇蝶は、普通の蝶とは違う。これはあくまで言い伝えなんだけど……人は死んだらその体は土に還っていくよね? でも、その魂は、心は土には還らず、残るんだって。そして肉体をなくした魂たちはやがて世界中を彷徨い、いつしか紫の蝶に姿を変え、想う人のところへ飛んでいくんだそうだよ。それが、死蘇蝶。人が捕まえたらダメなのは、想う人のところへ飛んでいくのを邪魔しちゃいけないから」
「それって……」
セーラは呆然と呟きながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「つかまえたら、ばちがあたるの……?」
「……わからない」
セーラは震えた。どうしよう、どうしよう、まさかそんなものだったなんて!
「セーラのお父さんがつい声を荒げてもとの場所へ放してきなさいって言ったのも、きっとセーラのことが心配だったからだよ。現に、さっきおじさんに会ったとき、ひどくきみのことを心配していたよ。一生懸命、きみのことを探してた」
「お父さんが……」
「うん。だから、セーラ。帰ろう」
 もう一度差し出された手を取ることを、セーラは躊躇した。
「わたし……ばちがあたるの?」
「セーラ」
「こわい……!」
膝を抱えて肩を震わせる。うつむいた顔を隠すように、黒髪がさらりと流れた。
 こわい。あの蝶が、そんなものだったなんて。もっとこわいのは、自分といっしょにいることで、両親やアルクゼイドにもばちが及んでしまうのではないかということだ。それが、なによりも恐い。
「こわい……」
 そのとき、ふいに、震える肩に暖かさを感じた。
「……大丈夫」
落ち着いた声が耳元で響いた。セーラの頭はすっぽりと彼に包まれていて、その声と同時に、彼のぬくもりも伝わってきた。
「大丈夫」
 彼の声が浸透する。大丈夫、安心していい。
「僕がいる。僕がセーラを守ってあげるよ」
安堵が全身に広がっていくのがわかった。ゆっくりと震えがおさまっていく。
「それに、おじさんやおばさんだっている。大丈夫だ」
大丈夫、と彼は根気よくセーラをなだめた。
どうして二つしか違わないのに、こんなに落ち着いているのだろう、と思った。でも、その彼の腕に包まれて、やさしい声になだめられて、安堵したのも事実。
「ほら、帰ろう。きみのことを守ってくれる人たちのところへ。……大丈夫、恐くない。僕がいる」
うん、と小さくうなずいた。彼は腕を解いて、セーラが立つのを助けた。
「帰ろう」
 手をつないで、ゆっくりと歩き出す。円形の壁と海に背を向けて、セーラは先ほどと比べてずいぶんと心が落ち着いているのがよく分かった。
「ありがとう……」
呟くと、アルクゼイドは少し振りかえってニッと笑ってみせた。つられて、セーラも微笑む。
 その場所から立ち去る最後に、セーラは後ろを振り返ってみた。



  ───紫色の羽が、ひらひらと宙を舞っていた。




『セーラ!!』
途端に、視界が一変する。
ぐらり、と平衡感覚がゆらいだ。
真っ青だった空が、一転してどす黒い雲に変わる。
風が叩きつけるようにして体を襲う。
あちこちから悲鳴が聴こえる。
目の前は、火の海だった。
その中を、夢中で走っている。
『おまえたちは先に逃げろ!!』
『セーラ走って!はやく!』
『セーラ!』
『逃げてくれ!──生き延びてくれ!!』
背中から聴こえてくる父の声。自分の手を引いて前を必死に走る母。
阻む風。すべてを焼き尽くす炎。焦げた臭い。そこらじゅうにころがった、知っている顔たち。響く怒号、悲鳴、魂の叫び。


「いやあああああああっ!!!」



「ガーネット!?」
 びくり、と体を震わせてガーネットは目を開いた。
「あ…………」
視界に映ったのは、青い空の色。
「ガーネット、大丈夫か?」
ジタン、だった。心配そうにこちらを見つめている。
「ジタン……」
いつもの、自分の寝台だった。いままで、夢を見ていたらしい。
ガーネットは肩で荒く呼吸をしている。暑い時期でもないのに、夜着はじっとりと汗ばんでいるのが感じられた。
呆然と、現実を確かめるように顔に手で触れる。
幾筋もの涙の跡ができている。それでも、とどまることを知らないように次から次へと涙がこぼれてくる。
「どうしたんだ、ガーネット。ひどくうなされてた」
その涙をやさしく指でぬぐって、ジタンが問い掛けてくる。
でも、ガーネットはすぐには答えられなかった。
 夢にしては、リアルすぎる夢。
当たり前だ。あれはすべて本当に起きたことなのだから。
あの嵐のなか、荒れ狂う海に、母と二人で小さな舟に乗って村をでた。
父はわたしたちを逃がすために重症を負って後で死んでしまった。母は嵐のなか自分を庇って息絶えた。アルクゼイドは、どうなったかわからない。でも、記憶を失って、不思議な運命に導かれて再びマダイン・サリに足を踏み入れたとき、すでに一族の生き残りはエーコだけだったのだから、そういうことなのだろう。
ガーネットはたまらなくなって、ジタンにしがみついた。
「ガーネット?」
 ジタンは少し目を見開いて、でもそっとガーネットの背中に腕を回す。
ジタン、といつもよりも格段と弱々しく自分の名前を呼ぶのが聴こえた。
「ジタンは……いなくならないでね」
切なげな、少し震えた声。
自然と、抱く腕に力がこもった。
「お願い……ジタンは、いなくならないで」
お願い、と彼女は涙をこぼして哀願した。
 父が死んだ。母も死んでしまった。優しくしてくれた聡明な少年も。そして、流れ着いた自分を本当の子供のように愛して育ててくれた義父母も、ともに死闘をくぐり抜けてたくさんのことを教えてくれた小さなビビも。みんなみんな、ガーネットの前からいなくなってしまった。
  大切な人を失うのは、もうイヤ…………!
「大丈夫」
 ジタンはゆっくりと、なだめるように言った。一方の腕でガーネットの体を包み、もう一方の手で、子供あやすようにやさしく頭をなでる。
「大丈夫。おれはずっとここにいる。ガーネットのそばにいるから」
 ガーネットはその言葉をかみ締めるようにゆっくりと瞼を伏せた。
その拍子にまた、涙がこぼれる。
『大丈夫。僕がいる。僕がセーラを守ってあげるよ』
 恋ではなかったと思う。でも、否定しきれない。やさしくて、なんでも知っていて、一緒にいるととても安心できる彼のことは、とても好きだったのだ。
  アルクゼイド…………
 彼のように、ジタンを失いたくない。失ってしまったら、きっと、壊れてしまう。
 ガーネットはその夜、涙が涸れるまで、ジタンの胸で涙をこぼしつづけた。
 ジタンはそのあいだずっと、強く抱きしめて放さなかった。大丈夫だと何度も言い聞かせて、ずっと、抱きしめていた────



         
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