声なきこえ。
わかってはいたんだ。
いや、わかっているつもりで、その実、あの子が城を飛び出したことでそんなものは関係がないと思っていたかもしれない。
あの子と旅した毎日は大変で、厳しい状況ばかりだった。それでも、不慣れな言葉遣いを一生懸命に練習するあの子につきあったり、落ち込んだときになぐさめたり、たあいのないことで笑いあったり……そんな日々は楽しくて、夢のようで……だからただ、考えないようにしていただけかもしれない。
でも、動かなくなってしまった義母親の体とともにあの国へと帰還し、凛とした顔で国の兵士たちに迎えられたあの子を見て、思い知らされた。
────夢は覚めたのだと。
「ま〜だ、いじけてんのか?」
不意に声がしたかと思うと、左隣の席に誰かがドサッと座ってきた。
「ブランク……」
左手に杯を持ち、右手で酒瓶を持ったままの姿勢でテーブルに突っ伏していたジタンは、のろのろと顔を上げた。眠ってはいなかったが、テーブルに突っ伏していた所為でおでこのあたりに少し、赤いあとがついている。
「ったく。おまえらしくもねぇ」
そう言うと、ブランクはジタンの杯をひったくった。そのまま口へと運び、半分ほど残っていた透明な液体を一気に飲み干す。と、
「ぐへっ!」
突然のどを押さえて激しくむせた。ゲホッ!ゲホッ!
「お、おまえ、いままでこんなキツイ酒、こんなに飲んだのか……?!」
「ああ」
ゲッとブランクは心の中で叫んだ。ジタンが今飲んでいる酒は、アレクサンドリアで一番のアルコール度を誇る銘柄だった。あまりの酒のキツさに、大抵の者は一口で音をあげる。コレを好むのは、よほど感覚が麻痺した奴か、よっぽどの酒豪のみだ。その酒瓶が、テーブルの上には三本ほど、転がっている。
「酔えないんだ。まったく」
「はあ!?この酒を、ここまで飲んでもか!?」
ブランクの叫ぶような問いに、ジタンは頷いた。確かに、ブランクから見ても、ジタンに酔っているような様子はうかがえない。目つきはいつもよりも険呑さを増しているが、それ以外ではいたって普通だ。顔が赤くなってもいない。
こいつ、バケモンか?
おそらくこの酒を飲んで酔わなかった奴など、これまでいなかっただろう。それも、三本以上も飲んでいながら。
もともと、ジタンは昔から酒に強かった。バクーを交えたメンバーたちで酒を酌み交わす時も、みんなが酔っ払っているときに一人ほろ酔いだったし、十歳の頃あたりに、他のメンバーがかすめ取って来た酒を一緒に初めて飲んで、盗んできた本人は一杯で顔が真赤になったが、ジタンは尻尾を振りながら平気で全部飲んでいたという話を聞いたこともある。
けれど、さすがにこれは度を越えている。
「おまえ、なんでそこまで……」
呆れてつい口に出して聞いてしまったが、ブランクはとっくに答えを知っている。
ジタンが、何を忘れたくてこんなにも酒を飲んでいるか。
「……ったくよぉ。らしくもねぇ。うじうじ悩んでるなんざ」
わざとぶっきらぼうに言った。
「さっき、会ってきたんだろう?お姫さま……ああ、もうちょいで女王サマか。どうだったんだ?」
「どう、って言われてもな。……なにも、言えなかった」
あと三日で女王に登極するダガー。城の少し高い位置にある渡り廊下に出てきた彼女は、あまりにも自分とはかけ離れた場所にいるのだと思い知らされた。がんばれよ、とか、なにか困ったことがあったらいつでもおれに相談しろよ、とか、声をかけるべきだっただろう。でも、実際は、なにも言葉がでてこなかった。心からの言葉が。見当たらなかった。
「おまえ……いままでいろんな女と付き合ってきたくせに、本当にあのお姫さまのこととなると、不器用だな」
「放っといてくれ」
「あーはいそうですか」
じゃあとっとと消えますか、と呟いてブランクは立ち上がり、あっさり店を出て行く。
店を出てすぐ外ではマーカスが待ち構えていて、ブランクを見るとすぐに近寄ってきた。
「兄キ、どうっスか?ジタンさんの様子は」
「あー、だめだな。ありゃ。やさぐれてて、まだ当分立ちなおりゃしねえよ」
片手をひらひらと振ってみせ、ブランクはお手上げだ、と呟いた。
「よっぽど、好きだったんっスね……」
「そうなんだろうな」
あんなジタンは、古くから付き合っているタンタラスの団員も、初めて見た。
ブランクは今までのジタンの女性遍歴をだいたい知っている。知っているだけでも、ゆうに両手では足りないくらいの人数だ。
大抵は遊び半分で自然消滅、もしくは女の方から一方的に別れたりしていた。
後者の場合、ちくしょうなんでだよーと苛立っているところは見たことがある。でもそれも次の日になればけろっとして、他の女に声をかけたりしていた。ジタンは去るもの追わずだ。ずっとそうだった。別れた女に未練があるとは到底思えなかった。
それが、今はあんなふうに少しでも忘れようと酒にすがっている。
まあ実際は、ジタンはダガーと別れたのではないし、その前にそういう関係ではなかったらしいが。
「それにしてもだ。そんなにいい女なのか?ガーネット王女は。まぁ、顔は確かにきれいだったけどよ」
ブランクは、ダガーと顔を合わせたことはあったが、まともに話をしたことはまだなかった。まだ、といっても、彼女はもうすぐ女王になってしまうのだから、もうそんなことは無理かもしれないが。
「……………………なんて言ったらいいか、……わかんないっス…」
なんだそりゃ、とブランクは返したが、表情をあまり変えないマーカスが本当に困った顔つきになっていたので、それ以上の追求はやめておくことにした。
「まぁいいや。よし、今夜も見回りに行くとするか。俺らにできるのは、それぐらいだ」
「了解っス。兄キ」
『ジタン』
頭の中で、声がこだまする。
やさしくて、やわらかくて、まるで歌うような可憐な声。
「ダガー……」
厳しかった、けれど楽しかったこの一ヶ月。……もう、帰ってはこない。ダガーは旅をやめるだろう。彼女がこの国を放って行くなんて、できるはずがない。彼女はいままでの王女という身分ではなく、新たに、女王という立場になるのだから。
そうなれば、もう二度と会うことはできないだろうと思う。女王に課せられた仕事は半端な量ではないだろうし、なによりも、自分の盗賊という身分が邪魔をする。盗賊と何かしらの関係をもつ女王、などというのは外聞が悪い。自分が盗賊だとばれてしまうのは一向に構わないが、それでダガーの政務の妨げとなったり、ダガーを傷つけてしまうのはいやだ。
もう、手の届かない存在になっちまうんだな……。
城には優秀な騎士や兵士がたくさんいる。それこそ霧の大陸最強と謳われるベアトリクス将軍や、スタイナーだっている。もう、彼女に自分の守りは必要ない。自分は、必要ない。
ぐいっと杯を仰いだ。普通の酒よりものどにくるそれを、一気に飲み干す。中身がなくなると、杯をテーブルの上に置き、立ち上がった。
「あーあ。まったくもって興ざめだわ」
すっかり暗くなってしまったアレクサンドリアの通りをてくてくと歩きながら、青い頭に角を生やした少女はぼやいた。
「せっかくいいところだったのに、あの変てこなオジサンが下品なくしゃみなんてするから!……ジタンは来ないし」
最後の部分で、かわいらしいほっぺたをぷぅっと膨らませる。少女は手紙で呼び出した相手をずっと待っていたが、結局相手は来なかった。すこしそんな予感はしていたものの、やっぱり、つらい。いくらまだ小さいからといっても、自分だって女の子なのだ。
「どうせ、今ごろもダガーのことで頭がいっぱいなんだわ……」
口に出すと、じわりと涙が出てきそうになった。拭かない。そのかわり、立ち止まって、二三度頭をぶるぶる振る。そしてこぶしを握って前を睨みつけた。
「まだだわ。まだはっきりと決まったわけじゃないもの。どのみち、ダガーは女王様になっちゃうんだし。そうなったらさすがのジタンも近づけないだろうし、ダガーだって、そんな偉い身分でほいほいジタンに会いにいけるはずがないわ」
そうよ、ジタンだっていまはまだダガーのことが忘れられないかもしれないけど、もっと時間がたてば忘れていくだろうし、そうして時間がたった分、エーコは成長してるわ。
「よし!」
また今度ジタンにお料理つくってあげよう、と意気込んで、エーコはまたてくてく歩き始めた。てくてくてくてく……。
そうしてやがて広場にさしかかったころ、エーコは広場に誰かいるのを認めた。動かないし、うまく暗闇にまぎれているから分かりにくかったが、確かにだれかがいるのがわかった。
こんな暗闇の中で、なにしているのかしら?
エーコは子供でありながらこんな暗闇の中を歩いている自分のことを棚上げして、そう思った。
幸い、相手はまだエーコには気づいていない。エーコはすぐにそばの茂みに身を潜めてその人物を観察してみた。こういうとき、体が小さいのは便利なことだ。
「(エーコ?なにしてるクポ?)」
不審に思ったのか、モグが小声で尋ねてきた。それに、シィッ!と答える。
「(広場に、だれかいるの。こんな暗闇にまぎれて行動するなんて、きっと盗賊かなにかよ!)」
エーコはまたしても自分のことを棚上げして自信まんまんに推理した。
葉っぱの間からよくよくその人物を観察してみようと試みる。恐れよりも先に好奇心がうずいてしまうのは、果たしてまだ子供であるせいなのだろうか。
だが暗闇に目が慣れているエーコでも、その人物の輪郭はあまりよくはとらえられなかった。その人物は、ほんとうにうまく闇に溶け込んでしまっていて、おぼろげにみえる程度であった。
「(むむむ……これは絶対、プロだわ)」
「(プロ!?クポ!?)」
「(そうよ、絶対に間違いないわ!きっとこの暗闇に乗じて何かとんでもないことをしようとたくらんでて……────)」
エーコの言葉が途中で、切れた。
ちょうどその時、真上の雲の合間から月が顔を現し、地上に光を与えた。
そこに浮かび上がった姿は。
「(ジタン!!)」
ジタンだった。見間違えるはずがない。エーコは大きく目を見開いた
彼は、ひっそりとそこに立っていた。月の光を浴びながら。
闇から暴かれても、他の影に入ろうと動くことはなかった。まるで銅像のように、ずっと昔からそこにたたずんでいたように、そこに、いる。
なにかを、じっと見ていた。
エーコも、自然と惹かれるように彼の視線を追っていた。
そうして、目に映ったのは───……美しき巨城、アレクサンドリア城の、幽玄たる姿。
そっと、視線をジタンに戻してみる。
じっと城を見上げ、視線をはずすこともなく、また、動くこともしないジタン。
───……わかる。
わかってしまった。他ならぬ、ジタンのことだから。
それは、胸に痛みを伴うものだったけれど、わかってしまったことを、否定できない。
彼が本当は何を見、そして、今誰を想っているか。
ダガー……なのね……。
一心に城を見つめ、そしてあそこにいるだろうダガーのことを見つめている。
いったい、いつからそこに立っていたの────………。
胸が、苦しい。せつなくて、痛くて、涙がこぼれた。
「(エーコ、どうしたクポ?泣いてるクポ?なにがあったクポ?)」
モグが心配して問いかけてくる。けれど、それらは耳に入らなかった。胸が痛くていたくて、息ができないかとも思った。
……それだけの、想いなんだわ……。
まだ子供の自分には理解できない。たしかにジタンのことは好きだけれど、こんなふうに、傍目にもせつなくなるほどの行為は、できない。知らない。
エーコはいたたまれずにその場から逃げた。
なるべく足音をたてないよう、でもできる限り速く。
そうして、ここ数日いつもみんなで集まる酒場に駆け込み、そのまま客の目につきにくい端の階段まではしって、うずくまった。
「……エーコ?」
ビビがびっくりした様子で近寄ってくる。心配そうな声をかける。
「放っといて……!」
胸が痛くて、涙が止まらない。こんな顔を見せるわけにはいかなかった。殊に、ビビには。
「エーコ?」
「放っておいてって、言ってるでしょう!?」
「……ごめん」
強く言われて、ビビは立ち去ろうとした。一段、二段、と階段を下りたけれども、なにか思い直したようにまた上ってきた。エーコのところへ戻ってくると、うずくまって声を押さえて泣いているその頭に、手をのばす。青い髪に触れて、優しく撫でる。
「う……っく……」
それで涙が余計にでてきて、エーコは、余計なことをしないでよ、ともありがとう、とも言えなかった。
ビビは二、三度そうすると、また階段を下りていってしまった。
あたしはきっと、ダガーのようにはジタンに好きになってもらえないんだわ……
あんな光景を見たことで、決定的にエーコは打ちのめされた。自分の想いが報われることは、きっとないのだ。それが、どうしようもなく悲しい。そして、ダガーを一心に想いながらも、その身の差ゆえにあんなふうに遠くから見つめるしかないジタンのことを考えると、胸が締め付けられる。
エーコは、ジタンがどうにかダガーのことを忘れようとお酒に頼っていたことを知っている。そして、忘れられなくて遠くから見つめていることも知ってしまった。
「かなわないんだわ……」
嗚咽をこらえて小さく呟く。
ちょうどその時、酒場の扉が開かれた。
「夜分に失礼します。こちらにエーコ嬢はいらっしゃいますかな?」
聞き覚えのある声と、学者のような風情。エーコはその人物を知っていた。
エーコは立ち上がり、服の袖でごしごしと目をこすって、いつものとおりに見えるよう、元気よく階段を下りていった。
……どれくらい、ずっとそうしていただろう。
湖に囲まれてそびえ立つ、優雅なるアレクサンドリア城。そこに。
『ジタン』
あの、綺麗で透き通るような声の持ち主がいる。
たったそれだけで。ジタンは城を見上げたまま動けなくなってしまった。
同じアレクサンドリアの中にいるのに、この距離はなんだろう。彼女は広い湖に囲まれ、そして強固な壁に包まれている。この隔たりは、なんだろう。
ダガーは、あと少しでガーネット女王になる。もう、あの旅の日々は帰ってこない。ダガーは、自分のそばにはいてくれない。
「おれは、盗賊だしな……」
この想いは、届かない。伝わらない。報われるはずもない。たとえここからずっと、見守っていても。
そんなことを考えて、自分で自分を笑った。
「へっ、おれらしくもないな。こんな未練がましいこと」
すべてを振り切るように、ジタンは城に背を向けた。
振り返る事はせず、まっすぐに歩く。城下町の通りを抜けて、仲間が集まっているだろう酒場へと足を運んだ。
『エーコ、おじさんのお家に行きたいわ』
『私の家、でございますか?』
酒場の扉に手をかけようとしたとき、中からそんな声が聴こえてきた。
元気すぎるこの声は、エーコだ。もう一人の方は、聞いたことのない男の声だった。声から察するに、初老あたりの歳だろう。
『しかし、私の家はアレクサンドリアではなく……トレノにありますが』
『トレノ?』
そこは楽しいところ?と無邪気に尋ねるエーコの声が耳に入った。
トレノ、と聞いてジタンははっとした。
そうだ。なまじ近くにいるから、忘れられないんだ。アレクサンドリアから離れて、どこかへ行けば、この想いは薄まってくれるかもしれない。
『エーコ、トレノに行く!』
ジタンは扉を開けた。
突然の来訪者に驚く面々。それにかまわずにジタンは言った。
「おれもトレノに行くぜ」
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