雪月架
おまけ ―その後やっぱり編2―




...............




ベアトリクスは腰に両手をあて、なりません、とその日何度目かわからない同じ台詞を繰り返した。
「でもね、あの、ベアトリクス……」
 取り付く島もない様子の女将軍に気圧されながらも一生懸命に訴えるのは、ガーネットである。
「私が熱を出した時もずっと付いていてくれたし、彼が熱を出してしまったのは私のせいだし……」
「な・り・ま・せ・ん」
 言い切られて、ガーネットは途方にくれた。そのガーネットに追い討ちをかけるように、横にいたスタイナーが
「陛下、あやつの熱は自業自得でありますぞ。ですから陛下がお心を痛められる必要は全く!ないのであります」
すべての元凶はあやつ、すなわち現状は当然の報いであります!と大きな両の手を振りながら力説する。
 ことの起こりは、一週間と三日ほど前。
ジタンが、突然旅に出ると言って出て行ってしまったことに始まる。もしや彼はもう帰ってこないのではと心配したガーネットは、彼が帰ってくるまでの三晩、極寒の中外で彼の帰りを待ちつづけたのである。その後ジタンは無事に帰ってきたものの、その結果、ガーネットはひどい熱を出して四日もの間ずっと伏せることとなってしまった。起き上がることもままならない状態に彼女を陥らせてしまった責任を感じたジタンはつきっきりで看病し、ようやくガーネットももとの体調にもどりつつあった。
そして今日。
ガーネットの熱が完全に下がり、さぁ政務に復帰だというときに、今度はジタンが熱をだしてダウンしてしまったのである。
「半刻だけでもいいの。急いで片付けなければならない書類はすべて片付けたのだし……、ね?」
「なりません、陛下」
 にべにもない返事に、ガーネットはうなだれる。
こうしたやりとりは今朝から始まってもう四刻ほどにもなる。その間ずっと「お願い」、「だめです」、「少しだけでもいいから」、「なりません」、の繰り返しであった。
ベアトリクスは手にしていた書類の束を机の上でとんとん、と端を揃えながら、軽く溜息をはいた。ちらりとその机の横に目を遣る。そこには、書類の山が三つ、今にも雪崩をおこしそうな様子でたっていた。
「……陛下。陛下が寝込まれていらっしゃる間に溜まってしまった書類は、まだこんなにも残っているのですよ?今月末にはトレノへの視察も予定されているのです。早めに片付けるべきことは、できる限りはやく片付けてしまいましょう」
その言葉の効果はてき面。う、とガーネットはつまってしまった。
やはり、だめか……。そう思い、悲しい表情になったガーネットの耳に、「ですが、」と聞こえた。
「いくら熱が下がったと言いましても、陛下はまだ本調子ではないのですから……少し、休憩を入れましょう」
「え?」
 手に揃えた書類を机の上に置き、ベアトリクスはガーネットに向けてにっこりと微笑んだ。
「再開は、二刻ほど過ぎた頃にいたしましょう。それまで、ごゆるりとなさってください」
「……二刻も?」
喜びのにじんだガーネットの声に、ええ、とベアトリクスは頷きながら、机から離れ、部屋のドアノブに手をかけた。
「もちろん、どこでくつろがれようとも、陛下のご自由です」
開け放したドアを持ち、促がすようにベアトリクスはガーネットに視線を送る。
「ありがとう、ベアトリクス!」
自然と浮かぶ笑みを抑えきれない表情で、ガーネットは小走りで部屋を後にする。部屋を出たところで、下官とすれ違った。普段のしとやかな女王の姿しか見ていない下官が、驚いて振り返る。
いつもの女王らしくなく、走って向かう先は……──知れている。
その後ろ姿を見送って、持っていた扉を閉めると、やれやれ、という声が聴こえた。
「やれやれ……そなたの陛下への甘さは、困りものなのである」
振り返ると、今にも崩れそうな書類の山を倒れないようにスタイナーが机の横で両手を伸ばし、支えていた。
「ふふふ……そうですか?」
ベアトリクスは傍に寄り、スタイナーが支える脇で書類の山が倒れないようにバランスを整える。
「けれど、それはスタイナーにも言えることですよ。現に、あなたは私の休憩の提案に何もおっしゃらなかったではないですか」
「それは…………」
 言い返せないスタイナーに、ベアトリクスは再び、ふ、と笑った。
「なんと言っても陛下に一番甘いのは、『彼』でしょうが……ふふふ、陛下の周りの者はみな、陛下に甘いのです」
不思議なことですね、とベアトリクスは呟いた。
「さ、私たちも少し休みましょう。そして、時間まで城の警備にあたることといたしましょう」





 自室の扉の前でガーネットはいったん停止し、乱れた息を整えた。
ここまで走ってきたので、さすがに少し息があがってしまった。
しかもこちらに向かう途中、ガーネットは急ぐあまりちょうど通りかかった侍女とぶつかってしまい、驚いた相手が尻餅をついてしまうというハプニングまでおこしてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝って手を貸したものの、相手にケガがないことを確かめると、とるものもとりあえずといった様子で謝って、再び走り出した。その侍女や廊下ですれ違った人たちはみな、いつもの女王とは違う、慌てた様子に目を瞠ってその姿を見送った。
 息を整え、静かに扉をノックしてみる。
 ……返事はなかった。
  ……眠っているのかしら……?
ガーネットはそっと扉を開けた。
「ジタン………?」
 そっと呼びかけ、中を覗いてみる。
やっぱり、返事はなかった。
寝台を見ると、帳が上げられたその中で、人が横たわっているのが見えた。
近づくと、暑いのか、毛布から半身を出して眠っているジタンの顔がはっきりと見えた。
  眠ってる………
 近づいても起きる気配がなかったので、そっと息を殺すようにしてガーネットは寝台に近づいた。彼は広い寝台の真ん中ではなく、左の方、入り口側へ寄って眠っている。不自然にあいた寝台の右側には、ジタンの左手が少し伸びていた。
ガーネットは知らず微笑んだ。
あいた右側の空間は、ガーネットの場所。いつも二人で眠るときの、ガーネットの場所なのだ。不自然に投げ出されたジタンの左手は、本来ならば、ガーネットの右手とつながっている手。眠る時に手をつなぐのは、二人の間で密かに交わした約束ごとだった。
そっと寝台の右側にまわり、ゆらさないよう静かにガーネットは腰掛けた。目を覚ましてしまうかしら、と少しどきどきしながら、ジタンのあいた左手にそっと自らの右手を滑らせた。熱のせいで、あつい。
そうして失礼なことだと思いつつも、間近で、まじまじと彼の寝顔を見る。
頬には、熱のせいで赤みがさしている。伏せられた瞼を縁取る睫毛がおとす影の長さに、少し驚いた。薄く開いた唇からは、規則正しい呼吸が聞こえる。
『いやぁ、おれってもてるからさ』
あの旅の間、彼はたまにそんなことを言っていた。確かに、そう自惚れてもおかしくないほど、彼の顔立ちは整っている。目を閉じているから、なおさら顔立ちがくっきりと見える。
 そういえば……───
 ジタンの寝顔って、初めて見るわ………
ふと、今更ながらに、そんなことに気がついた。
旅の間の記憶を洗っても、再会してからの記憶のどこを捜しても、ジタンの寝顔は記憶にない。旅の間はいつだって、いつ何時モンスターに襲われるか分からないからか、皆ぐっすりと眠ることなんてできなかった。中でもジタンは気配に敏感なのか、夜中にふとガーネットが目覚めると、「眠れないのか?」とよく声をかけてきた。眠るのも、いつも私より後で……。それは、再会してからも変わらなかった。いつだって、眠るのは私より後で、夜中にふと目覚めたら、「どうした?」って、声をかけてきて……。
 そこまで考えて、なんだか、くやしいわ。とガーネットは思った。
ジタンはわたしの寝顔をたくさん見ているのに、わたしはジタンの寝顔を見たことがなかったなんて。
寝顔というものは、自分で見ることができない。だからこそ、人に見られるのはすこし恥ずかしく感じるものである。相手がジタンだからこそ許せる、というのはあるけれど、でも……
 ずるいわ、とガーネットは心の中で呟いた。
そして、唇に笑みを浮かべるとそっと心に決めた。
このまま、ジタンが目覚めるまで彼の寝顔を見ていよう、と。





 コトン、と薪の落ちる音がした。
薄く目をあけ、ぼんやりする視界と重たい意識を瞬き数回で追いやって、ジタンは眠りから覚めた。
音の正体は、暖炉にくべられた薪。勢いよく燃える炎によって支えを無くした薪が、すべり落ちた音だった。
しだいにはっきりしだす意識の中で、あれ、とジタンは思った。

眠る時には確かになかった温かさとやわらかさが、左手にある。
思わず首を左に向け、そうしてジタンは完全に目覚めた。
漆黒の夜空のごとき艶やかな黒髪と、それとは対照的な、雪のごときなめらかな白い肌。閉じられた瞼を縁取る長い睫毛に、薄く開いた赤いかたちのよい唇。天使が舞い降りたかと誰しもが思うその容貌をジタンに惜しげもなくさらし、彼女は眠りの世界を漂っていた。
「いつのまに……」
あいている右手でぽりぽりと頭を掻き、ジタンは困ったような、嬉しいような、表情をした。
「ん……」
白い頬に影を落とす睫毛が幾度か揺れ、ジタンがしまった、と思う間もなく天使は薄く目を開いた。
「お目覚めですか、お姫さま」
からかうような調子でジタンが声をかける。とたん、ガーネットは完全に目を覚ました。
もともと大きな瞳をさらに大きく開いて、ついで、みるみるうちに頬を赤く染めた。そうして、赤く染まった頬を隠すようにガバッと掛け布の中に潜りこむ。
すかさずジタンはにやっと笑い、熱を出していることも忘れてガーネットの隠れた掛け布のなかに潜った。
そうして、ジタンの寝顔を眺めている間に知らず眠ってしまったことに頬を染め、彼から逃げようとするガーネットと、彼女をからかうジタンのまるで童子のような嬌声が、もぞもぞもぞもぞと攻防が繰り返される掛け布の中から響いた。
王族用の、特別広い寝台とはいえ、やはり寝台。ガーネットは一生懸命彼の手から逃げたのだが、がんばりもむなしく、ものの数秒後にはすっぽりと彼の腕の中に捕らえられていた。
「つかまえた」
ヴェールになっていた掛け布を剥ぎ取り、極上の笑顔を向けて言うジタンに対してガーネットが出来たことといえば、赤く染まった顔を彼に見られないよう、顔をそむけ彼の胸に頬を押し付けることぐらいだった。くやしまぎれに彼の胸を軽く叩く。
「仕事はどうしたんだ?まだ夕刻じゃないだろう?」
いて、いて、と大げさに顔を歪めながら、ジタンは尋ねる。
「ベアトリクスが、少し休みましょうって言ってくれたの」
ジタンの様子が気になったし……と小さな声でガーネットは付け足す。
ふ、とジタンは笑って、
「朝と比べたら、だいぶ楽になったよ。大丈夫だ」
と告げた。
「ほんと?」
ガーネットは顔を上げて、ジタンの顔を間近に覗き込んだ。確かに顔色は今朝よりも良くなっている。
「ガーネットが添い寝してくれたおかげだな」
からかうように笑って、ジタンが言う。その様子から見て、ガーネットが彼の看病をしている間にうっかりと眠ってしまったことはお見通しらしい。ガーネットは頬を少しふくらませて、「もうっ!」と彼の胸をもう一度軽く叩いた。
その腕を掴んで、ジタンはガーネットを引き寄せた。唇に笑みを浮かべたまま、彼女の白い頬に軽く唇をかすめる。
先ほどとは別の意味で、ガーネットの頬がほんのりと赤く染まった。
「……もう」
照れ隠しのように少し唇を尖らせて、ガーネットは小さく抗議する。
その様子を見て、ジタンはまた笑った。
幾度繰り返しても慣れないのか、ガーネットはすぐに頬を染める。それを隠そうとするのも、変わらない。そしてその様子が、ジタンにとってはもう可愛くて可愛くて仕方がないのである。
「……大人しくしてないと、熱下がらないんだから」
ガーネットがそう抗議する。
ジタンはかまわず、そっと顔を近づける。彼女の吐息が、ジタンの唇をかすめた。薄く染まった頬を覆うように、両の掌で包む。
ガーネットが反射的に目を閉じかける。
 ──コンコン、とドアをノックする音が部屋に響いた。
「陛下。申し訳ございませんが、そろそろ執務の方へ戻っていただかなくては……」
はい、と頭のてっぺんから出したような、うわずった声でガーネットは即座に返事をした。同時に、なぜか思い切りジタンの胸を突き飛ばしてしまい、ジタンはあえなく広い寝台の端へと転がされる。ぎりぎり寝台から落ちはしなかったものの、ちょっとした恐怖をジタンはあじわってしまった。
「あ!ご、ごめんなさいジタン。大丈夫??」
あわててガーネットが寝台から今にも落ちそうなジタンを救出する。扉の向こうのベアトリクスに今行きます、と声をかけて、動揺がおさまらないまま寝台から降り、扉へ向かおうとした。と、その腕をジタンが、掴んだ。
「え?」
とっさに振り向いたガーネットの唇は、ジタンによって塞がれていた。
ガーネットの頭の中は突然のことで真白になる。
「……つづきはまた、夜に、な」
そっと唇を離し、にんまりとからかうように笑ってジタンはそんなセリフをはいた。
とたん、意識を取り戻したガーネットが、これ以上ないというほど真赤に顔を染めた。
「なっ……!ジタン!」
叫ぶと同時に、陛下?と扉の向こうから訝るベアトリクスの声が飛んできた。
ほらほら、ベアトリクスが待ちくたびれてるぞーと、ジタンがからかいを込めてガーネットをせかした。だれのせいなの、とガーネットの頭に一瞬浮かんだが、口がうまく回ってくれなくて、言葉にはできなかった。かわりに、
「もう!ちゃんと、大人しく休むのよ?」
とだけ言い置いて、走って部屋から出た。そんな彼女に向けてジタンが笑いながらひらひらと手を振る。
「ごめんなさい、ベアトリクス!」
部屋の前でガーネットを待っていたベアトリクスに謝り、並んで執務室へと向かい、歩き出す。
ガーネットは、未だに自分の顔が真赤に染まっていることを自覚していたが、幸いなことにベアトリクスは何も言わず、いつものように微笑んでいるだけだった。
ガーネットは、そっと早鐘のようにどきどきと波打っている胸に手をあてる。
ベアトリクスに気づかれないようにそっと深く息を吐いて、鎮まって、と言い聞かせた。
「陛下、今日はいつもよりもだいぶ寒さがやわらいでいますよ」
ひょっとしたら、寒さの出口はもうそこまで来ているのかもしれませんね、とベアトリクスが言う。
「そうね」
確かに、気がつけばアレクサンドリアで白月と呼ばれる二月も、あと残すところ少し。寒さの出口もだいぶ近づいて来ているのだろう。事実、廊下の窓から見える城下の景色は、少しずつ白い色をなくしてきている。
窓の外の風景を見ながら、ガーネットはふとほんの数日前を思い出していた。
ジタンが城を出て行ってしまって、一人取り残され、ただ待つことしかできなかったあの日々。彼がもう帰ってこないのではないかと、不安に押しつぶされそうだった。
いまは、彼が無事に帰ってきてくれて、こうして傍にいてくれて、ほんとうに、言葉では言い表せないほどに、うれしくて、しあわせな気持ちが溢れてくる。どうして、彼がいてくれるそれだけで、こんなにしあわせなのか、ガーネットには不思議でならなかった。
「あ」
ふと、空のかなたに雪とは違う白いものを見つけ、ガーネットは思わず声をあげた。
「シュライン……寒さの終わりを告げる鳥ですね」
ええ、とガーネットは頷いた。本来ならば群れをなして寒さの終わりを告げにやってくる鳥だが、ガーネットたちの視線の先には、わずか2羽しかいない。すこし早めにやって来てしまったのか、本陣よりも先に到着したのか、それでも、2羽とも力強くアレクサンドリアの空を自由に飛んでいる。
ガーネットは知らず、微笑んでいた。
 わたしたちも、ずっとあんなふうに一緒にいられたら、いいな。
ガーネットはしばらく立ち止まり、悠々と泳ぐように飛ぶ2羽を、じっと眺めていた。



アレクサンドリアの、冬が終わる。




    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送