L`ord's Prayer
<8>



─主よ、我の願いを聞き届けたまえ─




 もうすぐ、夜が明ける。
カーテンを締め切った暗い部屋の中、ベアトリクスはひとり静かに立っていた。
その右手には、彼女の家に代々伝わってきた聖剣、セイブ・ザ・クイーンが、抜き身のまま握られている。
鋭く光を放つその聖剣は、その名の通り女王を守るための剣。大ぶりで、見事な装飾を柄と鞘に施されたその剣の起源は、何代も前、ずっと昔に起こった戦争である一人の騎士が身を挺してアレクサンドリア女王を守り、その功績が認められて女王から与えられたものである。
その剣を握りしめ、ベアトリクスは一人静かに目の前にある扉を見つめていた。
 ……もうすぐ、夜が明ける。
夜が明ければ、ベアトリクスの闘いが待っている。
この城からすでに女王が脱出したことを、できるだけ長くイララ・クシュハルトに感づかせてはならない。
ガーネットには「自分が身代わりに嫁ぐ」と言ったが、ずっと騙しとおせる可能性がとても低いことはベアトリクスにも重々わかっている。
でも、せめて、ガーネットがこのアレクサンドリアを出、誰かの庇護を受けるまでは……。

 幸いにして、本来ならば女王は婚礼の式のときまでこの部屋に監禁の身。
これからベアトリクスは、誰もいない部屋に食事を運び、いない方の世話をし、さもこの部屋にその方がいらっしゃるように振舞う……。──すべては偽りごと。全ては秘め事。
そして、あの蝶の鱗紛で人間を操ることができるということは、誰が敵で誰が味方なのか、まったくわからないということ。
 誰にも、もう頼れない。
 夜が明ければ、己たった一人の闘いが始まる。


「信じるものは、己のみ」


 低く呟いて、その手の中の剣を高く掲げた。
カーテンから洩れる、薄い日の出の光が剣に反射し、剣がいっそう光輝く。
 その朝の光の中、ベアトリクスは扉を開けた────。






 

  カツーン…………


 静寂に満ちた聖堂に、靴音が響く。
月の光の中、青年が一歩踏み出した音だった。
 信じられない、という表情で、二人ともが互いを凝視していた。
思わず一歩足を踏み出した青年も、驚きのあまりに身動きすら忘れてしまったガーネットも。
二人ともが、魅入られるように互いを見つめ合っていた。
 聖なる教会の、聖なる女神像の前で。



瞠目したまま、ガーネットはくらりと眩暈を覚えた。
手を伸ばし、駆け寄れば触れられる距離に、彼がいる。
金色の髪と日に焼けた肌を月光に照らし出され、澄んだ青空のような瞳をこちらに向けてくる彼が。
否。

いま自分が見ているものは、目の前にあるのは、幻ではないだろうか。
彼に会いたいと、彼に触れたいと希(こいねが)う自らの心が作り出した幻影ではないか。触れた瞬間にふっといなくなってしまう、そんな夢幻の類ではないだろうか。
 だって、こんなところに彼がいるはずがない。
死んだと聞かされ、それでも信じきれず、彼に会いたくて会いたくて、この胸を焦がす情熱に従うまま城から逃げ出して……。
 気づけば、知らず、足が前にでていた。
触れたら消えてしまうかもしれない。
でも、たとえ夢幻でもいい。もっと近くで彼を見たかった。
 ゆっくりと、でも確実に足はまた一歩、彼に近づく。
彼は動かなかった。こちらを見つめたまま、ガーネットが近づくのを待っていた。
そのことが、彼は幻だという思いを確実なものにする。
少しずつ距離を縮め、静かにガーネットは彼の前で立ち止まった。
青い瞳は、なお消えることなくこちらを見ている。
初めて出逢った頃よりも随分と伸びた背。あのころは目線の高さは少ししか違わなかったのに、再会したときにはすでに幾分か目線が高くなっていた。少年らしさを残していた輪郭や表情は成長して男の人のそれになっていて、再会したあとの何日間かは、気恥ずかしくて彼とまともに目を合わせることができなかった記憶がある。実は、今もときおりそうなることがあった。この青い目に見つめられると、どうしようもなく胸が鳴って、気恥ずかしさに赤くなってしまうことが、ある。
でも、今は違った。
胸が鳴るのは同じだけれど、心は身を切られるような切なさでいっぱいで、今にも泣き出してしまいそうなほどだ。
相手が夢幻のたぐいのせいかもしれない。
ずっと会いたくて、切なくて仕様がなかったせいかもしれない。
じっと彼を見上げ、その瞳を見つめる。
そして、そっと腕を伸ばす。壊れやすいものを扱うように、今にも消えてしまうのを恐れるように、そっと、ゆっくり、彼の頬に手を伸ばした。
そうしても、彼はこちらを見つめたまま、動かない。
やっぱり、夢幻のたぐいかとガーネットが悲しく思ったとき。
光のように透けて通り抜けてしまうだろうと予想していたその手は、意外にも、温かさとともに手ごたえを感じた。
目を丸くするガーネットの目の前で、それまでずっと微動だにしなかった幻が、初めて動いた。温かい手が、ガーネットの左頬に触れる。
ガーネットはますます目を見張った。


「ガーネット」


目の前で、彼が名前を呼ぶ。
その唇の動きを、ガーネットは呆然と見ていた。
 彼独特の、低くて、耳に心地よい声。その名前を呼ぶときの、限りないやさしさを込めた声音。
「ガーネット」
もう一度その名を呼ばれた。ガーネットはただただ呆然と彼を見つめるばかりで、もう片方の頬に添えられた手にも気がつかない。
 幻とは、こんなにも温もりをもったものなのだろうか。こんなにもそっくりに、呼びかけてくるものなのだろうか。
否。
 触れられる幻なんてあるはずはない。人の熱をもった幻なんて───
──……ということは

  ──……幻じゃ…………ない……?

唇がわななく。
ずっと心のなかで叫びつづけていた名前を、のせた。

「ジ……タン………?」

やっとの思いで出したかすれ声に、ああ、と目の前にいる彼はうなずいた。
ガーネットは目を見開いたまま、小刻みに震えだした指で、彼の両頬を挟むように触れる。その手に彼の手が重ねられる。彼の頬からも、手のひらからも、温もりが伝わってくる。
 ……温かい。
 生きている。
 夢幻じゃない。
そう感じた時、彼を見つめる瞳から、一雫の涙がこぼれた。
彼の温かい手がやさしくそれを拭って、ガーネットはそのとき初めて自分が涙を流していることに気がついた。
あとからあとから流れてくる涙をこらえようとしたけれど、だめだった。涙はとめどなく流れおちて、ジタンの手と服の袖を濡らしていく。
そして涙のせいで彼の姿までぼやけて見えなくなってしまったとき。
「ジタン………っ」
しがみつくようにジタンの首に腕を回し強く抱きしめて、ガーネットはその胸に顔を埋めた。
そんな彼女の温もりを確かめるようにジタンは彼女を強く掻き抱く。

胸に顔を押し付けて、堰を切ったように涙を流すガーネットをきつく抱きしめて、ジタンは目を閉じた。
髪が短くなって、惜しげもなく曝け出されている白く細い首筋が頼りなくて、泣いている彼女が愛しくて切なくて、
「不安にさせてごめん」
そう何度も呟いた。
「ばか……!し、心配したんだから……っ!急にいなくなって、と、突然死んだなんて聞かされて……」
嗚咽をこらえながら、ドンと拳で彼の胸を叩く。
前にもこんなことあったな、と思いつつ、ジタンはごめん、と素直に謝った。
「いなくならないって、ずっと傍にいるって、そう、言ったじゃない……!なのに…………!」
「……ごめん」
「私ひとりじゃ、どうにもできなくて、心細くて、どうしたらいいか分からなくて…………ベアトリクスが………っ!」
拳を叩きつけながら悲痛な声を絞り出すガーネット。その彼女をなだめるように、ジタンは彼女の髪を撫でた。
「分かってる。大丈夫だ」
大丈夫、と。ジタンは繰り返した。
その言葉は、彼の声は、素直にガーネットの心に染透る。心が幾分か落ち着くのがわかった。
「傍にいるって言ったのに……一人にさせてごめん。心細い思いをさせてごめん」
ガーネットの艶やかな髪を撫でながら、ジタンは言った。
そんなジタンの胸を、ガーネットはもう一度叩く。いて、とジタンは呟いて、もう一度ごめんと謝った。
「ジタン」
 名前を呼ばれて、少し体を離し、ん?と彼女を見下ろす。
ガーネットはいまだ涙の止まらない顔をあげて、ジタンを見つめて微笑んだ。
「大好きよ」
泣いて目は赤くなっていたけれども、涙で頬は濡れていたけれども、彼女の美しさは少しも損なわれることはなかった。
否。
ジタンにとっては、これ以上ない至上の微笑みだった。
自然と口もとに笑みが広がって、ジタンはそのまま彼女を抱きしめた。



彼女の涙が止まるまで、ずっとそうしていた。








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