またひとつ、その整った唇から吐息が漏れた。
どこか遠くを見つめるような瞳が何かを堪えるように一度ゆっくりと閉じられ、まるで妖精のようだとたとえられるその造作に長い睫毛が影をおとす。
「陛下、お疲れですか?」
遠慮がちに声をかけたのは、『氷の女将軍』という異名を持つ凛とした女性。
「いえ、ごめんなさいベアトリクス。すこし、考え事を……」
そう言葉をつむぐ少女の前には、膨大な量の書類がところせましと並べ積まれている。彼女は朝からその書類たちにかかりきりで、ろくに休んでいなかった。
「……すこし、休憩いたしましょう。お茶を、運ばせますから」
やわらかい笑みを向けながら、ベアトリクスはそう提案した。
……少し前までは、彼女はそんな風に微笑んだりはしなかった。
『氷の女将軍』という言葉どおり、いっさいの感情を表にだすことはなく、触れると刃物のように切られてしまうような、そんな雰囲気だった。
そんな彼女を少しずつ変えていったのは、あのときともに命をかけて戦った仲間たち。
「……どうか、いたしましたか?私の顔になにか?」
いつのまにか、ベアトリクスを見つめたままぼうっとしてしまったらしい。
侍女にお茶の用意を言いつけて、ベアトリクスはじっと自分を見つめたままの女王に尋ねる。
『……ベアトリクスは、やわらかくなったわ』
そう思っても、なんだか口には出せない。
もともといつも護衛にはスタイナーがついていたから、そのぶんこの『氷の将軍』とは接する機会が少なかった。そのせいか、彼女と本当に打ち解けて接するには、まだ時間がかかりそうだった。
「違うの、ごめんなさい」
少女はそう言って首を振り、またどこかを見つめたままぼんやりとする。
ベアトリクスは怪訝に思って、目の前に座っている少女を見つめた。
少女はこの数ヶ月、霧の大陸の大国・アレクサンドリアの女王として膨大な量の仕事をこなしてきた。あの、全世界を巻き込んだ戦いのさなかに破壊されたアレクサンドリアの街が、瓦礫と絶望から徐々にもとの美しい街並みと活気とを取り戻してきているのは、この目の前にいる少女がいたからに他ならない。彼女自身が、寝る間を惜しんでアレクサンドリアの民のために東奔西走していた。
自分やスタイナーが少しはお休みくださいと申し上げても、すこし困った顔をして、民が復興のため日夜働いているのに、どうして私が休んでいられるの、とやんわりと返されてしまった。
……陛下は、自分を酷使しすぎです。
アレクサンドリアのため。確かにそれもあるだろう。
けれど、ベアトリクスにはわかっていた。……それだけではないことを。
そのとき、扉がノックされ、失礼します、という声とともに茶器をもった侍女が執務室に入ってきた。
部屋の中が、ふわりとしたお茶の香りで包まれる。
「いい香りね」
やわらかく微笑んで少女は言ったが、その表情がすこし翳っていることに、ベアトリクスは気づいた。
「外側の大陸から、こちらでは珍しいお茶を取り寄せたのです。香りも味も、たいへんよろしいですよ」
「……そう」
「さあ、どうぞ。……あまり、無理をなさらないでくださいね。陛下は、まだお若いのですし……」
心配する侍女にお礼をいいながら、少女はお茶の入れられた器を受け取る。
「あ……」
その拍子に、少女の手元にあった書類が一枚、床にひらひらと落ちてしまった。そのまま、風にのせられて、ベアトリクスの足元へとたどり着く。
なんの気はなしにそれを拾い上げ、すこし目を通すと、ベアトリクスはその書類を少女の前の机の上にのせた。
そして、
「陛下、すこし城の警備の様子を見てきてもよろしいでしょうか」
と言うと、少女はええ、と答えた。
「侍女殿、スタイナーを捜してきてください。すこし用事があるからと。わたしは城を見回っていますから」
「はい、かしこまりました」
一礼して部屋を出て行く侍女の後について、ベアトリクスも退出した。
扉をそっと閉めると、すこしの間そこから動かずに、視線を落とした。
あの最終決戦から、もう、すでに二ヶ月が過ぎようとしているのか……。
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