白い月の夜だった。
月の白い光の中で、彼の手がそっとわたしの頬に触れる。
心地よいぬくもりを与えてくれるその大きな手に、そっと自身の手を重ね、波の音を聴くように瞼を下ろした。
聴こえるのは、互いの命の鼓動。彼の手から流れてくるのは、生きているぬくもりと、あふれて止まらないほどの愛しさ。
瞼を閉じると、またひとつ熱い雫がこぼれ落ちて彼の手の甲を濡らした。
なぜこんなにも涙は尽きないのかと、不思議に思ってしまう。それくらい、自分はずっと涙を流しつづけていた。
今日だけではない。
彼が傍からいなくなってしまった日。それからの、彼の生死さえ分からずにただ信じることしかできなかった長い月日。
ずっと、自分は声もなく泣きつづけていた。
暗闇に怯える幼子のように、ただうずくまって、震えて、声を殺していた。
『泣いていても、何も、始まらない』
何度もそう自分に言い聞かせていた。皆に心配をかけることがないよう、明るく振舞っていた。
でも、けれど、心はいつも、『彼がいない。』と泣いていた。
自分の心は、誤魔化すことができなかった。
頬に添えた彼の手から彼の命を感じながら、ゆっくり瞼を開けると、彼はちょっと困ったような顔をしてわたしを見ていた。
窓の外に広がる薔薇園と、その向こうの夜空に浮かぶ真白の月を背にしてわたしを見つめる彼の姿は、どこまでも神聖に感じられる。
わたしはなかば見惚れながら、彼の唇がゆっくりと、どうして、と呟くのを聞いていた。
「どうして、泣くんだ……?」
ほとんど吐息だけで問い掛けられて、少し困惑する。
どうして、と問われても、自分には答えられなかった。
どうして自分は今も涙を流しているのだろう、と考える間にも、また一滴、彼の手をすべり落ちた。止まらない。
わたしにもわからないの、と答えるしかなかった。
ただ分かっているのは、彼の手のひらから伝わってくる熱さを感じるたびに、涙がこぼれてしまうということ。
涙をこぼすことは、彼を困らせてしまうことだということは分かっている。でも、止めることができない。
わたしには、ただ彼の手のひらに頬を押し付けて彼の熱を感じ、涙を流すことしかできなかった。
白い月の光に照らされながら。
彼はそっと、右手でわたしの頬を伝う涙を拭った。
そして、濡れた頬にはりついた髪をやさしくのけると、その頬を温かく包んだ。ちょうど、両頬を彼の手に包まれるかたちになる。
両の手のひらから伝わってくる熱が心地よく、また、自分でも知らない感覚を誘っている。甘くて、胸の奥底で疼く感覚を。
なぜか、鼓動が速い。
ドクドクと打つ鼓動が、耳につく。
彼の手のひらから熱を与えられたように、体が火照っている。
自分を見つめる青天の瞳が、すぐ近くにある。
なんとなく気恥ずかしさを覚え、合わせた瞳から、逃げるように目線を下げた。
そのとき、不意に彼の片手が撫でるように頬から首筋に滑った。
「……こわい?」
びくりと体を震わせたわたしを気遣うような、半分からかうような口調で彼が言う。
──以前ならばここで、からかわないで、と怒っていただろう。
でも、今は違う。
彼の言葉が何を意味しているか、わからないほどもう子供ではないから。
わたしに逃げ道を与えてくれる、これが彼のやさしさだと、分かるから。
全くこわくないといえば、うそになる。
長い月日を越えて再び会うことのできた彼は、最後に会った日よりもずっと、逞しく成長していた。もう見上げなければ目線を合わせることもできず、声だって、あの頃よりもずっと低くて、落ち着いていて。
今目の前にいるのは、あの頃とは紛れもなく別人の『彼』なのだ。
少しもこわくないはずがない。
……でも、いま向けられている笑顔は、あの頃から変わらぬまま。
どんなときでもわたしを励まし、勇気付けてくれる。
それに、心の奥底では分かっている。自分の体の火照りの意味も、速くなる鼓動の理由も。彼の熱の心地よさも。
─── 一歩。
踏み込んで、自ら彼の腕の中へと進んだ。
そのままそっと彼の胸に耳を押し当て、その命の鼓動を聞く。熱とともに伝わるその音は、子守唄のように聴こえた。確かに彼が生きてここにいるという、証。
わたしを迎え入れる彼の腕は、あの頃よりもずっと逞しくて、力強い。
彼から伝わってくる鼓動と熱は、また一つ涙をこぼれさせた。
いま、わかった。
どうして自分が泣いているか。
──彼が、ここにいてくれるからだ。
さまざまな運命に導かれて出会い、ともに旅をして。彼の自由さと強さに救われて。
そして死闘の末にあの日別れた彼が、生きて、いま、この場所に、わたしの傍に、いてくれるからだ。
それが、どうしようもないほどに嬉しくてうれしくて、だから、自分は涙をながしている。ようやく、わかった。
ゆっくりと閉じた瞼を開き、彼の蒼眼を見上げる。
涙で濡れているけれど。
笑んで、答えた。
「………こわくないわ」
白い光を背にして陰を負う彼の瞳が、微笑んで、まぶしそうに細められた。
その笑顔を目に焼き付けて、わたしは目を閉じた。
涙で濡れた唇に、彼がそっと触れる。
はじめはそっと。それが次第に深く相手を求めるものになっていくのに、時間はそうかからなかった。
そうして、あとに残されたのは、衣擦れの音と、乱れていく息遣いと、声。
夜の静寂の中。
白い月の夜に。
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