いたづらに


春は皆が昂揚する季節。
暖かな陽射しを浴び、つらく凍える冬の終わりを肌で感じ、厳しい季節をまたひとつ乗り越えたことをみなで喜び合うとき。


 けれど、ときに春は人を誘い、どうしようもなく立ち止まらせる。





「……もうすぐ、春ね」
執務室の机の上に置かれた書類の山。それらをつぎつぎと片付けていく手を少し休め、ガーネットは窓の外を見てそう呟いた。
窓の外はにぎやかなアレクサンドリアの城下町、そしてその向こうには少しずつ色づき始めた森と平原が広がっている。
冬の間に植物は葉を落とし、つぎつぎと茶色く殺伐とした姿に変えていく。
けれどその姿の下で、植物は種を寒さから守ることに全ての力を注ぎ込み、ひたすらに暖かい季節を待ちつづけているのだ。
寒い冬の間に色褪せてしまっていた森や平原がこのごろ少しずつ緑へと色を変えていくのを、ガーネットはこの窓から微笑んで見守っていた。
「そういえば、ここ最近とても暖かくなってきましたね。町のほうでも、子供たちが喜んで外を駆け回っているのをよく見かけます」
 側で別の書類に目を通していたベアトリクスも窓の外へと目をやり、目元をなごませて言った。
彼女は城だけではなく城下町の警備も頻繁に見回るので、町へと出ることが多い。おそらく、見回りの途中で外を駆け回る子供たちを見かけたのだろう。
「城の庭園の花たちも、あと少しで咲きそうなの。楽しみだわ」
早咲きの花のような笑みを浮かべて言うガーネット。その白い頬は、ほんのりと赤く染まっている。
「そうですね。陛下が心を込めて育てられている花たちですから、それはもう見事に咲くことでしょう。……ですが」
 ベアトリクスはそこで微笑をやめ、手にしていた書類を置いてガーネットの側に寄った。
「どうしたの?ベアトリクス」
「いくら日中が暖かくとも朝夕には冷え込みますから、花たちの手入れはほどほどにしてくださいねと再三申し上げましたのに、さては昨日、日が暮れてからも長い間手入れをなさいましたね?」
 少し咎めるような響きのこもった声に、あら、なんのこと?と努めて微笑をくずさずにガーネットは答える。
ベアトリクスはそのまま歩いて椅子に座っているガーネットの前まで来ると、失礼、と断ってガーネットに手を伸ばした。
ベアトリクスのひんやりとした手が、額に触れる。
ガーネットの白い肌は、熱を帯びて少し熱かった。
「……陛下」
ガーネットは観念して、ごめんなさいと謝った。
「どうしても、昨日のうちにやっておきたかったの」
 ガーネットはこの城の庭園の一つを、自ら世話している。かつては先代女王とともに二人で世話をしていたが先代が亡くなり、いまはガーネット一人が世話をすることとなった。
女王自らが庭園の世話など……と言う輩もいるが、ガーネットは気にかけず世話を続け、わからないことはすぐに庭師に尋ねて、彼らととても仲が良い。女王の身でありながらも花を愛して一生懸命に世話をし、屈託なく自分たちに声をかけてくれるガーネットに、庭師たちはいたく感銘を受けたようだった。いつもガーネットが庭園の世話をするときは大抵二、三人の庭師が我先にと手伝い始めるのだが、この様子から察するに、昨日はこっそりと一人で世話をしたのだろう。彼らは女王のことを第一に考えている。昨日ガーネットとともに世話をしたのなら、風が冷たくなる前になんとしてでも城の中へと戻したはずだ。
「ごめんなさい」
眉尻を下げ、本当にすまなさそうに自分を見つめるガーネットに、ベアトリクスは両目を伏せて小さく溜息をついた。
臣下の自分に対し、本当にすまなさそうにするこの主上を前にしては、怒ることなど誰にもできはしないだろう。
ベアトリクスは再度小さく溜息をついて、もう少し、ご自分の御身を大切になさってください、と申しあげるだけにとどめた。
「とにかく、今日の執務はここまでにいたしましょう。陛下は、お部屋でゆっくりとお休みになられてください」
「でも……」
「そのようなお体では、私が彼に叱られます」
彼、とはもちろん、言うまでもなくジタンのことである。
ジタンはここ数日、バクーに用事を頼まれたとかで、留守にしている。出かける朝、ガーネットは見送りをして、そのときに彼は四日後に帰ってくると約束してくれた。その四日後が、すなわち今日なのだ。
  きっと、帰ってきたら素敵なお土産話がたくさんあるだろうから。
 そう思って、昨日のうちに今日の分まで世話をしておきたかったのだ。彼が帰ってきたら、ずっとそばにいられるように。
ガーネットは返す言葉につまった。これ幸いと、だれか陛下をお部屋まで!とベアトリクスが部屋の外に向かって叫ぶ。
 すぐに一人の侍女が部屋に入ってきて、ガーネットに付き添った。
ガーネットは一人でいけると言ったが、ベアトリクスは頑として譲ってはくれなかった。
仕方なく部屋に戻り、半ば無理やりガーネットを寝台に寝かせると、侍女は薬師を呼びに行ってまいりますと言って退室していった。現在他の侍女たちはみな他の用事で出払っていて、誰も代わりには来られないらしい。
侍女が出て行ってしまうと、部屋の中は静寂に包まれた。
一人寝台で横になると、春の陽射しと呼んでもいいほどの暖かさをもった光が降り注いできて、気持ちがいい。
そして目を閉じて耳を澄ましてみると、いろいろなものが聴こえてくる。
侍女や官吏たちの忙しそうな足音。
草木の揺れる音。
鳥の高い鳴き声。
窓から入ってくる心地よい風が、やわらかいカーテンとたわむれる音。

 ジタンは、いつ帰ってきてくれるのかしら……。


暖かい光と、心地よいそよ風に包まれてそんなことを考えているうちに、ガーネットはいつしか眠ってしまっていた。






「な〜んか、いっきに春っていう感じだな」
人々が陽気に行き交うアレクサンドリアの城下町を抜け、ジタンは感想を洩らした。
気温は日に日に暖かくなっているし、草木は緑に変わってきている。花につぼみもつき始めたし、それに春に見かける昆虫や鳥などをたまに見かけるようになった。
そしてなによりも、人々に活気があふれている。
「こんなに天気のいい日なのに、やっぱりあいつ、仕事してんのかな……」
よく晴れた空を見上げ、呟く。想うのは、春に咲く花のような少女。
 ジタンはいま彼女の傍らを自らの居場所とさだめ、彼女のもとに身を寄せているが、ここ数日育ての親に野暮用で呼び出されて、顔も見れない日々を過ごした。
ようやく言いつけられた用事も済み、約束どおり、ジタンはいそいそと家路についているところである。
「あいつ無理ばっかりするからなぁ。いくらスタイナーのおっさんやベアトリクスでも、見抜けないことあるし」
やっぱりおれがちゃんと見てないとな〜、と口もとをゆるませたところで、アレクサンドリア城に着いた。
警備兵の目を盗んでこっそり庭へと入り、ひときわ大きい木の下に移動した。
人目がないか確認して、よっと掛け声をかけてよじ登る。
それほど登りやすい木でもないのに、ジタンは慣れた調子でするすると登っていく。
その途中にあるのは、城の一部から突き出た白いテラス。
そのテラスは、ガーネットの部屋からつながっているものだ。
「よっ……と」
手馴れた様子で見事木からテラスに着地し、ジタンは部屋の中の様子をうかがった。
……誰もいないようだ。
 ガーネットがいないことにはがっかりしたが、曲者!と叫ぶ輩たちもいないので、ひとまずテラスのガラス扉を開け、中に入ることにする。
カタリ、と音をたてて扉は開いた。
それと同時に、風が部屋の中に流れ込む。
 部屋の中に足を踏み入れて、ジタンははっとした。
  だれか、いる。
人の気配を感じる。
そのとき、視界の端を、なにかがひらりと動いた。
吸い寄せられるようにそちらを見る。
ひらひらと視界ではためいていたのは、寝台の、帳(とばり)だった。
風にもてあそばれ、寝台の薄い帳はまるで誘うかのように揺れている。
その帳の向こうにときおり見える、漆黒の色。
また吸い寄せられるように、そちらへ足が向かう。
心臓が高鳴っているのは、なぜだろう?
寝台のそばに立つ。
風とたわむれる薄い布を、そっと手で横にやる。
そこに横たわる少女の姿が、あらわになる。
瞬間。
ジタンは呪縛されたようにその場から全く動けなくなった。


光の中に横たわっているのは、あらゆる美をすべて兼ね合わせた、誰をも惹きつけてやまない、少女。
閉じられた両の瞳。その瞼を縁取る長い睫毛。
シーツに散りばめられ、頬にもかかる、クセのないまっすぐな漆黒の髪。
うっすらと桃色に染まった頬。
薄く開いた形の良い唇からは、規則正しい呼吸が聞こえる。
紅も刷いていないのに、透き通るような白い肌のなかで唯一、そこだけが、妖艶なほどに赤かった。
赤く咲いて誘う、花のように。



ジタンのなかを、衝動が突き抜けた。
血がたぎる。燃える。
熱い。
もう、どうしようもなかった。
 


気づけば、唇を重ねていた。


荒々しく、けれど少女が目を覚まさないようにそっと、ジタンは何度も口づけた。
それでも、胸にくすぶる火は衰えることがない。
もっと深く、濃いものを貪欲に求めている。
「ん……っ」
少女が、小さく声をあげた。
その声で、一気に現実に引き戻される。
少女が覚醒する。
その前に。





ガーネットは重い瞼を開けた。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。
いつもの、自分の寝台の感触。
さっきと同じ、侍女や官吏たちの忙しそうな足音。
草木の揺れる音。
鳥の高い鳴き声。
窓から入ってくる心地よい風が、やわらかいカーテンとたわむれる音。
頬を暖かい風が撫ぜる。
コンコンと、ためらいがちに扉をノックする音が聴こえた。
「あ、陛下。お目覚めになられましたか」
 先ほどこの部屋まで付き添ってくれた侍女が、様子を見に来たのか部屋の中へと入ってきた。
「薬湯をお持ちしました。お飲みになられますか?薬師がおっしゃるには、風邪と過労だそうですよ。今日一日ゆっくりと疲れをお取りになるのがよろしいかと……」
言いながら近づいてきた侍女が途中で、あら?と不思議そうな顔になった。
「どうかしたの?」
まだ少しぼんやりとする頭を押さえて、ガーネットは起き上がった。が、途端に寝ていらしてください!と再び寝台に横たえられてしまった。
「いえ、あの、たいしたことではないのですが……。陛下、テラスへ出られたのですか?」
薬湯の入れられた器を寝台近くの机の上に置きながら、侍女は尋ねる。
「え?」
出ていないわ、と答えると、侍女はますます不思議がった。
「薬師をお呼びした後、このお部屋を退出するときに、確かに窓とテラスへの扉は閉めたはずなのですが……」
思わずテラスへと続くガラスの扉を見やる。たしかに、扉は開いていて、そこから暖かい風が流れ込んでくる。
他の窓は、侍女が言ったとおり、どれも閉まっていた。
テラスへ続く扉だけが、開いている。
「え……」
『眠る前と同じ。』
『侍女や官吏たちの忙しそうな足音。』
『草木の揺れる音。』
『鳥の高い鳴き声。』
『窓から入ってくる心地よい風が、やわらかいカーテンとたわむれる音。』
けれど、たったひとつだけ、眠る前と違う、気にかかることがあった。
「陛下?」
 ガーネットがぼぅっとしているのを見て、不安にさせてしまったかと思い侍女は声をかけた。
「あ、いえ、ちがうの。あのね、あの、大丈夫。さっき、暑かったから私が、あそこだけ開けたのだったわ。ごめんなさい、私、寝惚けていて……」
 しどろもどろとはこういうことを言うのだろう、と思いながら、ガーネットはなんとか取り繕った。嘘をつくのがこの上なくヘタな彼女だったが、必死で言葉を並べる。
幸い、侍女はすぐに信じてくれたようだった。
「そうですか……。暖かい風といえど、あまりあたられるのは良くないかと思い閉めたのですが、出すぎたまねをいたしました。お許しくださいませ」
「い、いえ、いいのよ。あなたは、私のためを思ってくれたのだし……」
動揺を悟られないよう、もう少し眠るから、と言うと、侍女は一言二言いってすぐに退出してくれた。
部屋が、再び静寂に満ちる。
ガーネットは、そっと起き上がった。目を閉じて、耳を澄ませてみる。
『眠る前と同じ。』
侍女や官吏たちの忙しそうな足音。
草木の揺れる音。
鳥の高い鳴き声。
窓から入ってくる心地よい風が、やわらかいカーテンとたわむれる音。
 けれど、ただひとつだけ、眠る前と違う、気にかかること。
それは。
 ゆっくりと片手を持ち上げて、指で自身の唇のそっと触れてみた。
唇が、熱い。
そして、濡れている。
それが何を意味するかを考えて、ガーネットの顔が次第に朱に染まった。



 犯人は、わかっている。






 そのころジタンは、登ってきた木の、テラスよりも少し低い位置で、幹にしがみついていた。
とっさにテラスから飛び降りてこの木にしがみつき、ガーネットに見つかるのを免れたが、なぜとっさに逃げてしまったのか、わからない。
寝込みを襲った罪悪感……というやつだろうか。いや、正確には襲ったわけじゃ──……襲ったか。
 ふと、片方の手を硬い幹から放して、そっと唇に触れてみた。
さきほど何が起きたのかを、まざまざと思い出す。
あらゆる美が凝(こご)ったような彼女の姿。白い肌に一つだけ華麗に咲いた赤い華。
とらえたその華は、小さく、そして溶けるほどにやわらかくて……。
途端に、ジタンの顔は火が出そうなほどに真赤に染まった。
胸もばくばくと騒いでいる。
それらも、なぜなのかわからない。
 ただ、彼女の姿を、彼女の寝顔を、やわらかい彼女の感触を思い出すだけで、ますます熱が上がる感じがする。
「……っぶねぇー……」
 完璧に、理性が吹っ飛んでいた。
あのときにあったのは、凶暴なまでの欲望と、衝動と、動揺。
あそこで彼女が目覚めなければ、どんなことになっていたやら……。
 こんなことは初めてだった。
彼女とは数え切れないほど幾夜も共にしているのに、だ。
もちろん、最中で(何の、とか聞かないでくれよな)あんなふうにキレイさっぱり理性が吹っ飛んだことなら、過ごした夜と同じくらい、数え切れないほどある。けれど、それは状況が状況だし……
ただ眠っているだけの彼女にあんな激情を覚えたのは、初めてだ。
「やばい……」
ぽつりと洩らす。いろいろな意味をこめての「やばい」、だ。
……そして、ジタンはこの次にえんえんと頭を抱えることになる。
「どんな顔して、ガーネットに会えってんだよ……」
顔の火照りと身体の熱は、いまだ、ひかない。






春は皆が昂揚する季節。

暖かな陽射しを浴び、つらく凍える冬の終わりを肌で感じ、厳しい季節をまたひとつ乗り越えたことをみなで喜び合うとき。



けれど、ときに春は人を誘い、どうしようもなく立ち止まらせる────。

 

 

 

―終―

     
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